【声明】天皇も跡継ぎもいらない 11.8「立皇嗣の礼」反対緊急行動アピール

 10月9日、政府は、延期していた「立皇嗣の礼」を11月8日に開催する旨閣議決定した。さらに閣議では、祝意を表すため、当日各府省で「日の丸」を掲揚するほか、地方自治体や学校、会社などに掲揚への協力を求めることも決めた。また、衆参両院は、「立皇嗣の礼」に祝賀の意思を表す「賀詞」を、本会議において決議した。

 「立皇嗣の礼」は、秋篠宮が「皇嗣」となったことを宣言する「立皇嗣宣明(せんめい)の儀」、天皇にお礼を述べる「朝見の儀」、賓客を招いた祝宴「宮中饗宴(きょうえん)の儀」(都合二回)などからなる儀式で、それぞれ皇居宮殿・松の間で、「国の儀式」として行われることになっていた。今年の4月19日に行われる予定になっていたが、新型コロナウイルスによる「緊急事態宣言」体制の下で延期され、「収束状況を踏まえてあらためて日程を決める」としていたものだ。しかし、コロナ状況の「収束」など一向に見通せていないにも関わらず、饗宴の儀を中止し、宣明の儀の参加者も350人から50人に減らすなどして儀式を断行しようとしているのだ。

 この儀式は一連の「天皇代替わり」の最後の儀式として位置づけられることから、2016年の明仁の「退位意向表明」から始まった天皇主導の「Xデー」に区切りを付け、天皇・上皇・皇嗣からなる「新しい時代」の天皇制の開始を告げるためのものである。すなわち、明仁が退位し、徳仁が新天皇に即位し、文仁が次の天皇となることを宣言するということで、天皇制という制度は、これからもこうして永続していくのだということを、多額の税金を投入して確認し宣伝するのだ。それは当然、女性宮家容認、旧皇族の復活など、天皇主義者の間でも割れている今後の天皇制のあり方に関する議論(「皇室典範」見直し)とも連続するだろう。

 そもそも「立皇嗣の礼」なるものは、何かと言えば「伝統」を重んじるという天皇家にとっても、前例のない儀式である。それは「立太子の礼」に準ずるものしてなされようとしているが、「立太子の礼」もまた現行の皇室典範にすら規定のない、全く不要であり違憲の儀式であることを確認しておかなければならない。

 近代天皇制においては新天皇の即位後に、次の皇太子に対する儀礼である「立太子の礼」がこれまで4回行われてきた。戦前には立太子にまつわる詳細を定めた立儲令というものがあったが、これに基づいて儀式を行ったのは昭和天皇だけであり、同令も1947年に廃止されている。

 そして多くの天皇制の儀式がそうであるように、この儀式も皇室祭祀と結びついたものである。「立皇嗣宣明の儀」の後で天皇から受け取る壺切御剣(つぼきりのぎょけん)は、「皇嗣」の「護り刀」であり、これを受けて初めて「皇嗣」は、「天神地祇」や「皇祖神」などを祀った宮中三殿の殿上に昇ること(昇殿)ができるようになる。これが彼らにとって重要なのは、11月23日に宮中で行われる新嘗祭などの神事に、天皇と「皇嗣」がともに神に奉仕することが必要だからだ。政府は、それらは天皇の「私事」の世界であると言い張るが、新嘗祭には三権の長や閣僚も参列しており、国家が天皇教に関わる、明確な政教分離違反の儀式である。

 私たちは、延期になった4月19日にも、皇居の見える東京駅丸の内口の広場において、「『立皇嗣の礼』は延期じゃなくて中止だ! 身分差別と格差を温存し拡大する天皇制は廃止だ! あらゆる人びとへの生活と命の保障を!」と訴えた。そして、天皇出席の「全国戦没者追悼式」に反対するデモに取り組んだ私たち反天皇制運動の実行委は、本日、「立皇嗣の礼」に反対する反天皇制デモに出発する。天皇も跡継ぎもいらない。コロナ禍における違憲の「立皇嗣の礼」の強行に、われわれは強く抗議する。

 

2020年11月8日

国家による「慰霊・追悼」を許すな! 8.15反「靖国」行動

【学習会報告】福間良明『戦後日本、記憶の力学 ──「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社・二〇二〇年)

 著者がここで扱っている論点として、はじめに選んでいるのは「靖国神社、千鳥ヶ淵」「広島、長崎」「沖縄・摩文仁」だ。戦後史の経過で、これらをめぐる政治的にもきわめて重要な論点を、目配りよく整理している。続けて映画などの表現をも引きつつ、受け入れがたい「記憶」がソフィスティケートされていく経過を追い、さらに、これらが「現代化」「脱歴史化」されて「継承」されていることの問題を取り上げる。

 叙述には、資料を渉猟していることもうかがえて、いまなお現代史においても思想史においても重要な、「戦争の記憶」を考えるための論点が数多く提出されている本だ。参加者のいずれも読後の評価はおおむね高いものであり、本書がまとめられた後に起きた現在的な「コロナと政治・社会」の問題について、別途に「付記」を入れたジャーナリスティックな問題意識も好感の持てるものだった。

 議論の中で話題となったのは、これだけの整理をしてみせた一九六九年生まれの著者がまさに学生時代に出会ったはずの、裕仁の死と代替わりという戦後史上の大きな変化を、どのように認識したかについて叙述でまったく避けていることの「奇妙さ」だ。

 橋川文三、安田武や鶴見俊輔の天皇体験と天皇への(好意的)評価については触れられず、この問題について厳しく問い続けた平井啓之の論もないのはなぜか。靖国をめぐるテーマなら、加藤典洋や高橋哲哉の論について、同時代的には触れるところではないのか。エピローグでは、九〇年代以降の議論を「実証史学」の観点から「図式」「予断」が先行していると、やや裁断してみせている。それがまったく当たらないわけではないだろうが、逆にいうと、これらの議論に踏み込まないのは、分析への方法論に欠けるところがあるからではないかとも思わせるのだ。著者が、他の仕事では戦後史の中の大衆的な「教養」「文化」を扱いながら、自分史的にもなりうる議論を避けるのは、自身の「断絶」「無難」さへの志向があるのではないか。

 次回は、一一月一七日、山田朗『日本の戦争3 天皇と戦争責任』(新日本出版社)を読む。         

(蝙蝠)

【今月のAlert 】菅強権政治の下での「立皇嗣の礼」強行に反対!

 菅政権が発足してひと月が過ぎた。ようやく行われた所信表明演説に対する代表質問の様子をニュースで見ながら、この原稿を書いている。

 国会論戦のテーマのひとつはやはり日本学術会議の任命除外問題。菅は具体的な除外理由は明らかにしないまま、「総合的、俯瞰的な活動」が求められると、むしろ学術会議の機構改革の方に誘導しようとする。「菅話法」とも言われた官房長官時代の「鉄壁」さ、つまり質問に正面から答えることをせず、ふた言めには「批判は当たらない」「全く問題はない」と表情を変えることなく言い放つことで、あらかじめ議論を遮断し終わりにする。自分がそう言っている以上そうなのだと上から目線で断言する。こうした強権的な姿勢は、首相という立場になっても変わらない。

 学術会議の任命除外については、官僚トップの杉田和博官房副長官が、「任命できない人が複数いる」と、菅に口頭で報告していたことが明らかになっている。杉田は二〇一七年から中央官庁の幹部人事を一元的に管理する内閣人事局長を兼任しており、菅とともに時の政権の意志にそぐわない官僚を飛ばし、「政治主導」の名の下に、官僚の屈従と忖度の支配体制を作りだしてきた人物だ。官僚トップであるから当然ではあるが、天皇関連でもよく名前を見る。宮内庁が非公式で検討を求めていた明仁の生前退位について、その要請を握りつぶしたのも彼だし、明仁のメディアを使った生前退位意向表明の後、宮内庁長官の首をすげ替えたのも彼だと言われている。もちろんこの間の「代替わり」儀式の全過程にも、事務方のトップとして関与し続けてきた。

 その杉田は、警察庁の警備・公安畑を長く歩み、警備局公安第一課長、警備局長、内閣情報室調査室長、内閣危機管理監などを経て、第二次安倍政権で官房副長官に就任した。「官邸のアイヒマン」と呼ばれた、部下の北村滋国家安全保障局長とともに、警察出身の官邸官僚を代表する。安倍政権で重用された経産省出身者の凋落に伴い、菅政権における発言力はこれまで以上に高まっている。

 中曽根元首相の合同葬に合わせて、政府は全国の国立大学などに弔意を表明するよう求めた。この政府の姿勢にもあらわれているように、公務員は国(政権)に従うのが当然、とする国家主義的な官僚統制志向があたりまえのようにまかり通っている。しかし「敵」に対して「思想調査」めいたことをしたり、積極的にデマと印象操作を行ったり、スキャンダルを握り、メディアを統制するやり口も含めて、公安的手法と発想が、政権中枢を貫いているのではないか。そしてそれは「スガーリン」とも揶揄される、菅政権の性格そのものではないのか、との強い危機感を抱く。

     *

 さて、このような状況において、一度延期された「立皇嗣の礼」が、一一月八日に開催されることになった。

 「立皇嗣の礼」は、秋篠宮が「皇嗣」となったことを宣言する「立皇嗣宣明(せんめい)の儀」、天皇にお礼を述べる「朝見の儀」、賓客を招いた祝宴「宮中饗宴(きょうえん)の儀」(都合二回)などからなる儀式である。今年の四月一九日に行われる予定になっていたのが、新型コロナウイルスによる「緊急事態宣言」体制の下で延期されていた。もちろん、コロナ状況の「収束」など一向に見通せていない。饗宴の儀を中止し、宣明の儀の参加者も三五〇人から五〇人に減らすなどして儀式を断行しようとしているのだ。

 この儀式は一連の「天皇代替わり」の最後の儀式である。天皇・上皇・皇嗣からなる「新しい時代」の天皇制の開始を正式に告げるためのものだ。安倍よりはイデオロギー性は希薄に見える菅政権の「天皇論」はまだ必ずしも鮮明ではないが、立皇嗣の礼に連続するだろう「皇位の安定的継承」をめぐる論議において、次第にその像を結んでいくだろう。

 私たちも参加する8・15デモに取り組んだ反天皇制運動の実行委は、この日、「立皇嗣の礼」に反対するデモを準備している。コロナ禍における違憲の「立皇嗣の礼」の強行に強く抗議する! 天皇も跡継ぎもいらない! 身分差別と格差を温存し拡大する天皇制は廃止だ! 

(北野誉)

【表紙コラム】

 いわゆる職業軍人経験者の首相も中曽根康弘が最後だ。これにひきかえ警察官僚出身者は、形式上は文官でもあり、内調はじめ政権中核に影響力が大きい。とりわけあのクソ以後は「政治主導」を口実に官僚の人事をほしいままにし、杉田和博や北村滋など警備公安警察出身者を使ってその支配を固め、醜聞まで揉み消していると指摘されている。

 「学術」には縁がないが、その杉田らを背後に擁するカスの政権が、さっそく日本学術会議の人事に手を突っ込んでさまざまにかき回し、フェイク情報を流して脅迫で支配を強化しているのは、どうにも看過ならない。

 はるか昔、某企業に勤務していたころ、親しくもない同僚が、こぶしをグーパーしながら「××さんコレでしょ?」と話しかけてきた。最初は、パーすなわち「アタマが悪い」と言われているのかと思って笑っていたが、ややあって、そのジェスチャーがバクダンの破裂を意味し、そのころ加わっていた冤罪事件の救援運動を指していることに気づいた。インターネットもない時代で、その「情報」が公安警察から総務・人事を経由して一般社員にまで流されていることは明白、さすがに腹が立った。パーの鼻先にグーを返せばよかった。これは公安警察による情報操作が及んだ具体的な体験として、いまさらながら胸底の澱がかきたてられる思いがする。

 その某企業も業績不振や不正会計の影響で姿を変えたらしい。当時の関係者など警察にも残っていまいし、だれも覚えていないだろう。しかし、官庁の公式の議事録を記述しなくても書き換えても、姿を変えた「情報」は残っているに決まっている。警察資料もなんらかの形で保持され、さらには更新され他の情報とヒモ付けもされているわけだ。いまの監視体制はコストも安価で容易に維持できる。『善き人のためのソナタ』のような監視なら、まだしも「人間的」と思えるような現実があることを心したい。

(蝙蝠)

【月刊ニュース】反天皇制運動ALERT 53号(2020年11月 通巻435号)

 

反天ジャーナル ◉ (アンダーソン、映女、橙)

状況批評 ◉ 中曽根康弘合同葬を原子力・核兵器の観点から切る!(田中利幸)

ネットワーク ◉ 沖縄への機動隊派遣は違法・住民訴訟 控訴審への注目と傍聴を!(中村利也)

太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈125〉◉ 学術会議問題を考えるために不可欠な視点(太田昌国)

マスコミじかけの天皇制〈52〉〈壊憲天皇制・象徴天皇教国家〉批判 その17◉ 「祭祀〈神々〉」の世界」の順位確定のための儀式!(天野恵一)

野次馬日誌

集会の真相◉10・10出版記念講演集会 北村小夜さんと語ろう/コロナに便乗した戦争・治安・改憲にNO!を/「即位・大嘗祭」違憲訴訟差し戻し審 第一回口頭弁論

学習会報告◉ 福間良明『戦後日本、記憶の力学──「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社・二〇二〇年)

反天日誌

集会情報

 

→前号の目次はこちら

*2020年11月2日発行/B5判12ページ/一部250円
*模索舎(東京・新宿)でも購入できます。
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/

【案内】天皇も跡継ぎもいらない! 11.8「立皇嗣の礼」反対緊急行動

[日 時]11月8日(日) 15:30 集合/16:00 デモ出発
[集 合]原宿・神宮橋(JR 原宿駅のすぐ南側) 

 コロナ禍によって延期されていた「立皇嗣の礼」が11 月8日に行われることとなった。

 これは、天皇徳仁の弟である秋篠宮が、次の天皇となることを内外に宣言する儀式である。コロナ状況を受け、海外からのゲストを含む730 人程度が招かれる予定であった「饗宴の儀」は中止となり、「宣明の儀」の参加者も350 人から50 人程度に減らすなど、規模は縮小されるが、天皇制存続のための神道儀礼を含む儀式であることに変わりはない。

 「立皇嗣の礼」は、昨年の明仁の退位、徳仁の新天皇即位に続き、文仁が次の天皇となることを宣言する──天皇制という制度がこれからもこうして永続していくのだということを宣言する一連の代替わり儀式の締めくくりと位置付けられている。そこには多額の税金が投入される。この儀式だけでなく、秋篠宮が「皇嗣」となることによって、「お世話をする」ための職員はこれまでの20 人余りから50 人以上に増員され、その住居も約33 億円かけて大規模改修される。延べ床面積も約1600 平方メートルから5500 平方メートルにまで拡張されるのだ。これとは別に、完成までの仮寓所の費用として、約9 億8000 万円が支出される。

 違憲の神道儀礼を含んで行われ、多額の税金を浪費する「立皇嗣の礼」に反対!!

 天皇制はいらない。天皇もその跡継ぎもいらない! 

「立皇嗣の礼」反対の緊急行動を呼びかけます。

 ともに声を上げましょう!!

 

*参加される方は、マスクの着用をお願いします。また密にならないようにご協力をお願いします。

主催 ● 国家による「慰霊・追悼」を許すな!8.15 反「靖国」行動
【呼びかけ団体】
アジア連帯講座/キリスト教事業所連帯合同労働組合/研究所テオリア/市民の意見30 の会・東京/スペース21/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/ピープルズ・プラン研究所/「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会/「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動評議会
 

*この行動は終了しました。

→こちらに写真があります。

【学習会報告】中里成章『パル判事──インド・ナショナリズムと東京裁判』 (岩波新書・二〇一一年)

 日本の右翼は外国のインテリに「大東亜戦争」を肯定させるのが好きらしい。かつてのヘンリー・ストークス、今のケント・ギルバートが好例だ。その先駆けがパル判事であり、田中正明『パール判事の日本無罪論』は一九六三年の出版以来、新版となり現在まで売れ続けている。そんな従来の「日本無罪論」(無論パルが主張したのは被告人個人の無罪であり、日本国家の無罪ではない)を批判したのが中島岳志『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社、二〇〇七)と本書だ。

 中里はイギリスの植民地から独立してゆくインドのナショナリズムを分析する。パルも、ヒンドゥー大協会や、チャンドラ・ボースにシンパシーを抱くインドの右翼であり、戦後「逆コース」の日本の右翼に利用された一面が大きい。東京裁判の一一人の判事の中でもパルは思想も経歴も異色であり、「平和に対する罪」の事後法の無効を訴えたのは評価出来ても、主流派判決に従う署名への拒否、被告人席への一礼、公判の四分の一を欠席してホテルの一室で黙々と意見書を執筆する姿は多くの疑念を招いた。そんなパルが一九六六年、戦後三度目の来日を果たし、岸信介と清瀬一郎の申請で昭和天皇から勲章をもらうことにより、天皇を実質的に免責したのは最悪の結末だった。

 東京裁判の根本問題は、日本軍の最高責任者である天皇が訴追されず、証人としてさえ法廷に立たなかった点であり、これでは共同謀議が正しく裁けるはずがない(共同謀議が民間に適用されれば危険だが、戦争防止の観点から対国家には適用されてしかるべきだ)。そこが白日の下にナチスを裁いたニュルンベルク裁判と大きく異なり、GHQの徹底的な情報統制をもたらした。津川雅彦演じる東條英機が、天皇に忠実であったにもかかわらず、裁判では「陛下」に背いて戦争を遂行した「不忠の臣」として身代わりとなる姿は伊藤俊也監督『プライド・運命の瞬間』(東映、一九九八)でも印象的だった。

*次回は一〇月二〇日、福間良明『戦後日本、記憶の力学─「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社)を読む。

(黒薔薇アリザ)

【集会報告】コロナ禍で千人を超える反原発行動実現!東京・大阪

 新型コロナ禍と台風一〇号が直撃という最悪の条件の下、それでも「老朽原発うごかすな!」大集会は、ついに大阪うつぼ公園で実現した。この集会は、「5・17一万人集会」として、着々と参加・賛同人(団体)を拡大し準備されていたが、コロナにより延期されていたものである。組合の「動員」はほとんどなく、基本的に「個人」の意思での参加である。それでも参加者は一六〇〇人(主催者発表)、元気に雨の中をデモ。私たち東京組は、デモと解散地でのカンパ集め。思いのほか多額のカンパが集まったこの日の活動に、ささやかに協力。

 〈集会実行委員会での「お願いだから、大勢で集まることはやめませんか?」という熱心に反原発運動に参加してきた、集団感染ギリギリを病院で体験している医療労働者の声。こうした声(職業人として、ある意味で当然の主張)にも、耳を傾けながらそれでも、感染対策をしながら、再稼働が進んでも抗議の声を発せない世の中にしてはいけないという思いで、なんとか主催者としてはガンバッテきた。〉

 翌日(九月七日)での「再稼働阻止全国ネットワーク」での、この集会を中心で準備してきた参加メンバーの発言が心に残った。

 九月一八日には日比谷野音で「さよなら原発首都圏集会」が、参加者は一人一人体温を計って会場に入る、デモは基本的にサイレント(声を出さず)のスタイルでもたれた。私たちはマイクでアピールが認められた最後のグループで、「東海第二原発、オンボロ老朽原発再稼働反対!」の大声を発し、大阪で借りてきた「老朽原発再稼働反対」の幟旗を押し立てて参加。

 この集会も一三〇〇人結集と発表された。大阪と東京でやっと千人をこえる行動が、感染対策に十分に気を配りながら実現。

(天野恵一)

【今月のAlert 】天皇のことばで動く社会はオカシイ! 「立皇嗣の礼」も「皇位継承」もイラナイ!

 九月一六日、菅内閣が発足した。新首相菅義偉は安倍政権の継承を言葉と組閣で表明し、「国民のために働く内閣」を、という。これで六〇%以上の支持を得るのだから、手強くうんざりする社会であることにまったく変わりはない。ただ、安倍の辞任は体調不良が原因らしいが、その体調不良に追い込んだ国会内外の大きな批判の声があったことも記憶しておいた方が良いと思う。反安倍の声も功を奏していたのだ。そして菅内閣も早々に終わらせたい。

 ここでもう一つ、新内閣成立に伴う問題を記録しておきたい。同一六日、皇居にて天皇が新首相を任命する「親任式」と、新内閣閣僚らの認証式(任命するのは新首相)が行われた。これは憲法第六条「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」と第七条五「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」という、憲法が定めた天皇の「国事行為」だ。新天皇徳仁の最初の任命・認証式としてメディアは映像付きで報道し、これで新内閣が正式に発足すると述べた。

 反天皇制運動の最大公約数的な論理に、違憲行為を行うべきではないというのがある。とりわけ裁判闘争などでは、違憲であるかどうかで闘うことになる。この難しさを痛感しつつも、憲法を自分たちのまもりの道具として使ってもいる。しかし、私たちの反天皇制の論理はそこにとどまるわけにはいかないことだらけだ。

 なぜ天皇が、この国の行政のトップを任命するのか。なぜ各省庁のトップを認証する必要があるのか。今回の親任式には関係ないが、憲法六条には「天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」ともある。なぜ、司法のトップを天皇が任命するのだ?

 私たちの、現在の行政に対する信頼が限りなくゼロに近いものであるにしろ、一応は私たちの代表である。自分は選んではいないが、少なくとも誰かが選出した者たちだ。そうであるにもかかわらず、天皇による任命や認証を介さなければ内閣は正式発足しないという。そのようなものを、民主的なシステムと考えるのか。

 また、この新内閣のボスを選出する臨時国会を召集するのも天皇だ(憲法第七条二「国会を召集すること」)。召集は内閣が決定し、天皇の召集は形ばかりである。とはいえ、天皇の召集詔書がなければ国会は召集できないこととなっている。そして天皇が「国事行為」には含まれない「お言葉」を発するのも恒例だ。徳仁即位後初の国会(二〇一九年八月一日)では「国会が(中略)その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」と述べている。何さまのつもりか(天皇さまか)。その言葉を受け、国会審議が始まるのだ。大丈夫かこの社会は。

 私たちは、これらの問いを手放すわけにはいかないのだ。憲法が定める「国事行為」そのもの、いや一条から八条のすべてが、民主主義どころか憲法の九条以下にもことごとく反していることを、繰り返し訴えていくしかない。

 「代替わり」が実質終了して一年半が経とうとしているが、政府が予定していた一連の「代替わり儀式」は完了していない。今年四月一九日になされるはずだった「立皇嗣の礼」は新型コロナ感染拡大により延期されたままだ。この秋開催を予定していたようだがどうするつもりなのか。四〇〇〇万円もの税金を投入することも決まっているが、このご時世でなくともどうかしている。それでも天皇家にまつわる国事を中止するわけにはいかないというのが、天皇制である。そして、政府の方針どおりであれば「立皇嗣の礼」終了後、「皇位継承問題」「女性・女系天皇」「女性宮家」等々について審議が始まる。この社会にとって非民主的で差別的な問題だらけのシステム、天皇一族にとってすら非人間的といえるシステムを残すための論議が始まるのだ。

 「立皇嗣の礼」が決まれば、反天皇制の実行委では緊急行動を呼びかける予定だ。議論と行動、知恵を出し合っていきたい。情報をお見逃しなく!

(桜井大子)

【表紙コラム】

 一身上の都合でしばらくお休みしている間に内閣が変わった。安倍亜流内閣といわれ、官房長官時代の、上から目線で冷徹に切って捨てるような態度にも変わりはないようなのに、それが何か手堅く、「安定感」をもたらしているように受けとめられているようだ。人びとはそこまで不安感に押し潰されようとしているのか。

 その新首相が総裁選を前にしきりに述べていたのが、いわゆる「自助・共助・公助」。「まず自分でできることは自分でやる。自分でできなくなったらまずは家族とか地域で支えてもらう。そしてそれでもダメであればそれは必ず国が責任を持って守ってくれる。そうした信頼のある国づくりというものを行なっていきたいと思います」。

 何を言っているんだか。なぜ今さら、自分でできることは自分でやれと説教されなければいけないのか。生きるために必要不可欠なセーフティネットたる公助を切り捨てるために地域や家族の無償労働を当てにしないで、国は出すべきカネを出せ。

 「社会格差の問題については、格差が少ない方が望ましいことですが、自由競争によりある程度の格差が出ることは避けられないとしても、その場合、健康の面などで弱い立場にある人々が取り残されてしまうことなく社会に参加していく環境をつくることが大切です」というお気楽な発言を明仁がおこなったのは10数年前のことだった。徳仁・雅子も7月に野宿労働者など生活困窮者を支援するNPOの理事長を招き、困窮者支援について話を聞いた。彼らの言う「自由競争」や「自助」とも一切無縁である世界にいて、「心を痛めてみせる」だけの行為の、何がそんなにありがたいのか。

(北)