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【学習会報告】鶴見良行『日本の写真 天皇論/写真論1957-72』 (鶴見良行著作集第一巻『出発』〈みすず書房〉所収)

鶴見良行の、この貴重な「天皇論」の存在を知ったのは、私がかなり若い時であった。しかし、その批判の切り口の鋭さに気づいたのは、かなり後の時間である。レポーターであった私は、松下圭一の高名な「大衆天皇制」(スター天皇制)論より早く、メディア支配が全面化した政治社会の中の象徴天皇制の戦前から連続する家族主義イデオロギーをベースにした独自な政治的枠割に、キチンと批判の光をあてたこの諸論文の今こそ見過ごすべきではないある点にしぼって報告した。

「国民すべてを戦争においこんだひとつひとつの事態が究極的には天皇というたった一語の権威によって正当化されたのであったにかかわらず、天皇は何一つ戦争の責任を負いはしなかったという事実と、戦後の天皇は『人間』として国民多数の親愛の対象となっているという事実のつながりの問題」。このつながってはいけない問題が安易につながってしまったのは何故か?」

鶴見は、こう問いを自ら立てて、それに以下のごとく回答している。

「『人間天皇』という言葉およびその視覚的再現の写真があらわれた一九四六年正月頃」の状況。「人間宣言」とマスコミにネーミングされた「元旦の詔書」と、メディアにあふれかえる天皇家の家族写真。そして憲法の「象徴」規定。このプロセスでつながってはいけない問題がつなげられることが起きた。「……天皇が人間であるためには当然に戦争に対する公人としての償いが要求されるにもかかわらず、天皇の利用者にのみ追及が向けられ、天皇と国民の結びつきの面における国民の実感の変革をわれわれ国民自らが試みようとしなかったために、『天皇は人間である』という事実命題は容易に『人間的な天皇』という価値命題へとすりかえられていったのである」(強調引用者)。

天皇は人間であるという自明の「事実命題」を素晴らしい「人柄」の天皇という「価値命題」へのスリカエ(操作)があったというのだ。考えてみれば、このスリカエ(操作)は戦後マスコミの天皇報道の日常的作業であり、現在の「生前退位」は人間として当然とのキャンペーンは、その集大成ではないか。

次回のテキストは『アマテラスと天皇─政治シンボルの近代史』(千葉慶・吉川弘文館)。

(天野恵一)

【今月のAlert】「天皇代替わり」騒動はまっぴらだ! 7.21「なぜ元号はいらないか」集会へ!

連日の猛暑レポートが続いていた六月九日、天皇・皇后は南相馬市で開催された天皇三大行事の一つである全国植樹祭出席のために福島入りした。式典会場は津波被害に遭った沿岸部の海岸防災林整備地。天皇の植樹に意味を持たせるにふさわしい場所ということか。県の実行委公式サイトでは以下のように述べている。「福島県で開催する全国植樹祭は、本県の森林再生の取組の目標とするとともに、国内外からの復興支援への感謝の気持ちを広く発信するシンボル事業とすることを観点に検討し、東日本大震災による津波被災地であり、参加者に地域の復旧の状況を見ていただくことができる場所とした」と。「復興」植樹祭……。住民の、あるいはそこに住めなくなった住民のための行政であれば、やるべきことは他に山積しているはずだ。何のために福島県はこんなことに金やエネルギーを使わなくてはならないのか。そして天皇は例年どおり、植樹祭出席のほか、いくつかの視察や慰問もこなし、当地の人々を忙しく動員させている。

九日にはいわき市で避難生活を続ける被災者と面会し、植樹祭当日の一〇日は会場への移動中、雨の帰還困難区域を車で通り抜け、途中の料金所で、動員されたのであろう地元の人々と懇談したりしている。夜は宿泊先近くの公園で「提灯奉迎」。天皇たちもベランダから提灯を揺らして応えたとか。そして最終日の一一日、相馬市で慰霊碑に献花、水産物の地方卸売市場を訪問などしている。

大地震・津波と原発事故によって被災した人々を、救うことなく黙らせる天皇たちの力を最大限利用する行政と、人の心までも動員するに見える天皇・皇后のこういった行為に対して、うまく的を射た簡潔でインパクトのある批判の言葉をすぐにでも見つけ出したい。ともに考えて欲しい。

天皇の福島訪問と植樹祭については新聞・ネット上でそれなりに報道されていたが、どれも「天皇にとっては最後」「来年は皇太子」等の文言付きだ。「生前退位」とは、こうやって次の天皇制、すなわち天皇制の持続を連想させるものであることに、いまさらながら気づく。

福島訪問から約二週間後の七月二日、天皇は脳貧血でしばらく安静という記事が流れる。すぐに「症状安定」の報道に変わるが、おそらくしばらくは、「あの年齢と体力でよくやっていらっしゃる」といった同情や「崇敬」の念をないまぜの声がつくられ、一方では、天皇自身がつくり出した、年齢や体調に左右されず、常にりっぱに「公務」を果たす象徴天皇像と、それによって成立した「生前退位」が再度意識される状況がつくられるのだろう。どのような状況でも、いまのところ天皇の思い通りに事態は動き、株は上がるばかりに見える。回り始めると止まらない一つのサイクルが動き出しているかのようだ。

しかし、天皇の不調報道に、ここにきて「生前退位」あいならぬか? と考えたのは私たちばかりではないはずだ。その後の天皇の体調についても、ごく一部の者だけが知りうるだけで、事態はいつも不確定なものとして現象しているのだ。ただ、どうであれ、代替わりまであと長くても一年足らずである。うっとうしい天皇賛美報道とさまざまな服属儀礼のオンパレードが始まることもわかっている。天皇たちの都合でそれに変更があろうとなかろうと、惑わされ振りまわされるのはまったくゴメンである。言うべきこと、やるべきことを、その都度考えていきたい。

私たちはこれまで考え訴えてきた天皇制の問題を、整理し直し、言葉を吟味し、全国の友人たちとともに、少しでも拡がりを持った運動を目指していくしかないのだ。天皇が国家の制度として存在しているかぎり、私たちは天皇制について考えなくてはならない。そして、戦前から戦中、戦後と、天皇を介在させ続けることで、植民地主義、占領政策に基づく侵略戦争の歴史と責任を曖昧にし、現在のこのひどい社会に至っていることへの関心をつくり出したい。

一昨年の天皇の「生前退位」意思表明から、いわば天皇代替わり騒動というものを私たちは経験し始めている。この国が、天皇(制)に対しては誰も、国家権力でさえも、ものが言えない社会であることを、多くの人が見たはずなのだ。しかし、それがいかに非民主的な社会であるのかの実感は共有されていない。課題の大きな一つだ。

本紙でも繰り返し伝えているが、「元号いらない」署名は継続中である。これは一つの切り口でありうるのだ。七月二一日には集会も準備している(チラシ参照)。ぜひ一緒に考えていきたい。

(大子)

【表紙コラム】

「ヨイヤサッ!  ヨイヤサッ!」

春と秋の例大祭の日には、このかけ声が町内に響きわたる。法被姿に粋やいなせなどの形容詞がくっつくが、つい「そうかね〜?」と意地悪な感情が湧く私である。ほんの数年前、路地から突然、法被姿にふんどしから陰毛がはみ出ている数人の男性が表れた時は、心底恐ろしかった。なんで祭りだとこんな猥褻な姿で闊歩することが許されるのか。悲しく腹立たしい思いをしたが、さすがに最近はそれはなくなったようだ。

ところで神輿は、担ぎ手のネットワークがあるらしく、地元住民とは関係ない人々で大いに盛り上がっている。市ヶ谷に近い地区では、自衛隊員が担ぎにくるらしい。気がつくと自衛隊は町内会と仲良し。

まあそんなこんなで祭りは二日間に渡り、一日中路地から路地を練り歩くのだ。通りのあちこちで神輿の担ぎ手をねぎらうビールだの、お酒だのがずらりと並んだテーブルが用意されている。随所で水分(アルコール)補給をし、かけ声とともに高揚していくのだ。

夜の十時頃まで、これでもかと「ヨイヤサッ! ヨイヤサッ!」の大合唱。マンションが立ち並ぶ路地ではかけ声はビルに反響し大音量。声がかき消されないよう指示者はトラメ使用。しつこいけど、時間は夜の十時です。

と前振りが長くなったが、本題は新宿区が「騒音」を理由にデモ出発の公園使用の規制強化をしたことについて怒っている!ということ。

周辺住民からデモ制限の要望書が提出されたという。それを議会にかけることなく関係部署で協議し、部長決裁で使用基準を見直し、使用できる出発公園を四つから一つにしてしまった。区みどり土木部田中孝光部長は「私自身、住んでいる家の近くの公園に警察がしょっちゅう来て、デモがあるのは嫌だ」と答弁。部長、仲間うちのおしゃべりであんたの気持ちを聞いているんじゃないんだよ!

「神輿」も「民主主義が根づかない」のも、日本の伝統ですか?!

(桃色鰐)

【月刊ニュース】反天皇制運動Alert 25号(2018年7月 通巻407号)

今月のAlert ◉ 「天皇代替わり」騒動はまっぴらだ! 7・21「なぜ元号はいらないか」集会へ!(桜井大子)
反天ジャーナル ◉ ラディカル・文平、トメ吉、橙
状況批評 ◉ 象徴天皇制こそ倫理的頽廃の根源(彦坂諦)
ネットワーク◉明治公園のオリンピックによる追い出しを許さない!〜国賠訴訟提起〜(首藤久美子)
紹介 ◉ 2020オリンピックに抵抗するためのパンフレット集 (宮田仁)
太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈98〉 ◉「貧しい」現実を「豊かに」解き放つ想像力(太田昌国)
マスコミじかけの天皇制〈24〉 ◉ 首都圏原発「東海第2」再稼働・オリンピック・「生前退位」─〈壊憲天皇明仁〉その22(天野恵一)
野次馬日誌
集会の真相 ◉ 三〇年前の天皇代替わり時の社会をふりかえる(つくば)/天皇・皇后は、なぜ「人気」があるのか?(練馬)/3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーン 日本と朝鮮半島の関係を問い直す/おしつけないで! リバティ・デモ
学習会報告 ◉ 鶴見良行『日本の写真 天皇論/写真論1957-72』(鶴見良行著作集第一巻『出発』〈みすず書房〉所収)
反天日誌
集会情報

→前号の目次はこちら

*2018年7月10日発行/B5判16ページ/一部250円
模索舎(東京・新宿)でも購入できます。
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/

【集会案内】なぜ元号はいらないのか? 7・21集会

日時:7月21日(土)午後1時15分開場/1時半開始
会場:文京区民センター2A(地下鉄「後楽園」駅・「春日」駅、下車すぐ)

講演:坂元ひろ子さん(中国思想史・一橋大名誉教授)
「中国の革命経験から考えるアジアの共和国」

報告:中川信明(靖国・天皇制問題情報センター)
「元号不使用運動の実践と成果」

ほか、自治体議員など予定

主催:元号はいらない署名運動

【呼びかけ団体】 ■反天皇制運動連絡会■「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会■天皇制いらないデモ実行委員会■靖国・天皇制問題情報センター

 

(よびかけ文)

来年5月1日の天皇代替わりとともに、「平成」は終わります。

これに合わせて元号制度を終わりにしようと、全国の仲間の皆さんとともに「新元号制定に反対する署名」を集めてきました。

「不便・不合理な元号」というのはもちろんですが、さらにもう一歩「なぜ元号はいらないのか?」という議論を深めていきたい。そんな思いを込めて、7月21日に集会を開催します。

講演は、中国思想史がご専門の坂元ひろ子さんにお願いしました。元号を生み、そして廃した中国の歴史から考えることは多いと思います。

元号反対運動の歴史的な観点からの報告も予定しています。

ふるってご参加ください♪

【呼びかけ】「明治150年」天皇制と近代植民地主義を考える 8・ 15 反「靖国」行動への参加・賛同の呼びかけ

二〇一九年四月三〇日明仁天皇「退位」・五月一日新天皇「即位」まですでに一年を切った。

四月初め、政府の式典準備委員会は「代替わり」儀式の基本方針を固め、明仁への「代替わり」のそれを今回も踏襲するとした。「即位の大礼」など五つの儀式を「国事行為」とし、「大嘗祭」は「国事行為」とはしないが、その「公的性格」に鑑みて、特別に公費を支出するという。政府や一部マスコミは、それが「政教分離」への配慮などというが、そもそも新天皇の即位儀礼とは、三〇にも及ぶさまざまな儀式の総体であって、その一部だけを切り離すなどということ自体無意味だ。私たちはまず、一連の「代替わり」儀式が、憲法上の「政教分離原則」と「国民主権」の原理を公然と踏みにじる、違憲の行為であるということを指摘しなければならない。そして、一連の天皇「代替わり」儀式は、日本が、天皇という世襲の君主を戴く国家であり、「国民」もまた天皇に象徴されることによって「国民」なのだということを再確認させる、最大の天皇制攻撃にほかならない。

そもそも、八〇歳を超える高齢となり、「天皇のつとめ」を充分全うすることができなくなったということを理由に、「生前退位」のメッセージを発し、退位特例法なる新たな立法すら実現させていったのが、この間の「天皇退位」の動きであった。にも関わらず天皇は、退位するその日まで、天皇としての「公務」や、皇室祭祀などを精力的に続けていく意思を示している。宮内庁がこの一年の間に、天皇としての「公的な活動」を、皇太子や秋篠宮に引き継ぐことを提案したが、天皇はそれに同意しなかったというのだ。

今年の三月二七日、明仁・美智子は沖縄・与那国を訪問した。この沖縄訪問を、マスメディアは相変わらず「慰霊の旅」などと描き出している。しかし、この地域は、対中国シフトをイメージした軍事的な拠点としてクローズアップされている。すでに二年前の三月二八日に、この与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置され、そして天皇が沖縄に着いたまさにその日に、陸上自衛隊は全国の五方面隊を一元的に指揮する司令部として「陸上総隊」を発足させ、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)をおいている。与那国では、町内のあちこちに、自衛隊協力会によって、「奉迎」の横断幕が掲げられ、天皇が乗った車は、自衛隊与那国駐屯地の隊員によって、と列で迎えられた。また那覇の国際通りでも、自衛隊の陸・空特別編成音楽隊を先頭に、「日の丸」と提灯を掲げた四五〇〇人の奉迎パレードが行われている。「平和主義」イメージとは裏腹に、天皇と軍隊との軍隊との結びつきは、より露骨に現れていたのだ。

明仁はまた、六月九日には、全国植樹祭への出席に伴って福島県を訪問し、さらに八月五日には、アイヌモシリが「北海道」と命名されてから一五〇年を記念する式典が行われるのに合わせて札幌を訪問し、その前後に離島・利尻島を訪ねる計画となっている。

明仁は昨年八月のビデオメッセージで、「とりわけ遠隔の地や島々への旅も、天皇の象徴的行為として、大切なもの」と述べていた。天皇としての「最後」の訪問地としてこれらの地域が選ばれていることは象徴的である。沖縄と北海道は、近代天皇制国家の出発にあたって、「日本の版図」に編入された地域であり、その一五〇年間の歴史には、日本帝国による国内植民地支配の経験が刻み込まれている。その地域と住民(先住民)を、あらためて日本の「国土」・「国民」として再統合していく「象徴的」な行為として、天皇の訪問はあるのだ。そして侵略戦争と植民地支配の歴史を後景化させる方向での歴史の「清算」は、日本の近代全体を、文明化と経済発展の軌跡としてひたすら明るく描き出そうとする、政府の「明治一五〇年」賛美の動きと連動するものだ。

さらに、明仁天皇がこだわってきたとされるのが「戦没者慰霊」である。今年の八月一五日の全国戦没者追悼式は、明仁にとっては、天皇として最後の式典出席となる。全国戦没者追悼式は、戦争の死者を、戦後日本の発展をもたらした「尊い犠牲者」と賛美することによって、その死を美化し顕彰する儀式にほかならない。その意味において、軍人・軍属(戦闘協力者)の死者を「英霊」として祀る靖国神社と同質のものだ。

8・15反「靖国」行動は、国家による「慰霊・追悼」を撃ち、天皇制の植民地支配、戦争・戦後責任を批判し抜く行動として取り組まれてきた。日本が、戦争法や治安法を整備し、海外における米軍への協力活動など、実際の軍事行動に踏み込んでいる現在、国家にとって「新たな戦争の死者」をどう位置づけ、利用していくかという課題は、ますます現実的なものとなっている。国家による「慰霊・追悼」それ自体が、戦争準備の一環をなしているのだ。そして「代替わり」に伴って新たに登場する新天皇が、そこでどのような役割を果し、また果すことが期待されているのかを問うていかなければならない。

8・15反「靖国」行動をステップに、「明治一五〇年」から「代替わり」諸儀式に具体的に反対していく運動を強化し、向こう側からの「平成の総括」を批判しぬき、天皇「代替わり」を契機として創り出される天皇制社会の時間と空間に抗していく、私たちの自由を取り戻す闘いを準備しよう。8・15反「靖国」行動実行委員会への多くの参加・賛同、協力を!

「明治150年」天皇制と近代植民地を考える8・15反「靖国」行動

[呼びかけ団体]

アジア連帯講座/研究所テオリア/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」の強制反対の意思表示の会/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動者評議会

【追悼文】追悼・新崎盛暉さん

天皇の「生前退位」希望のメッセージに突き動かされるかたちで開始された天皇「代替り」の政治プロセス。今年(二〇一八年)も、私たちは四月二八〜二九日の連続行動の実行委員会をつくりだした。まず三月二七日から二九日にかけての天皇・皇后の「最後の」沖縄訪問に抗議する運動からスタートしていた。その渦中に、新崎盛暉さん死去の悲報は届いた。

『琉球新報』(四月一日)はこう報じている。

「沖縄戦後史や沖縄民衆運動研究の第一人者で、市民運動をけん引してきた沖縄大学学長で同大学名誉教授の新崎盛暉(あらさきもりてる)さんが三一日午後五時五八分、肺炎のため南風原町病院で死去した。八二歳。東京都出身」。

研究の「第一人者」であることはまちがいないが、彼の研究スタイルは、いわゆる研究者のそれとはまったく違っていた。常に反基地や反安保運動の中に身を置き、運動を方向づける実践的意思をもって状況を緻密に分析する。歴史的過去に向き合っている文章でも、その基本的姿勢は崩さない。ようするに運動の中から、運動に向かって、さらにその外部に向かって発信する。その作業の累積が、そのまま「研究」なのである。いいかえれば運動の「同時代史」の記述が、そのまま「運動史研究」なのである。彼は、最後までその姿勢で完走した。こんな人間を、もう一人さがせといっても、ほぼ不可能であろう。

学生時代は「反復帰」論に理論的共感を持って沖縄について考えることからスタートした私が、復帰運動の代表的イデオローグであった彼に強いシンパシーを抱くようになったのは、八〇年代末からの運動の中での交流を媒介に、その点に気付かされたことが決定的であった。この交流の中で、私たちの運動のパンフレットなどに収めるための彼のインタビューや論文の原稿依頼に、また講演依頼に、「学長」である彼は気楽に応じ続けてくれた。

私と対談で小さな本をつくったこともある。『本当に戦争がしたいの!? 新ガイドラインの向こうに見えるもの』(凱風社・一九九九年)がそれである。そのとき聞けた話で、忘れられない、というより忘れてはいけない話(エピソード)が二つある。

「両親は沖縄出身だけれど僕は東京で生まれた」と語る彼は、一九五二年の〈四・二八〉体験について、こう語っている。

「……校長が全校教職員を集めて、今日で日本は独立しましたということで、万歳三唱をしたんです。それが僕と沖縄の出会いだった。僕は沖縄出身だと思っていても紛れもない日本人でもあった。しかし沖縄が日本から切り離されて米国の支配下に置き続けられるというのに、ここで万歳しているやつがいるわけね。校長が音頭とって、九九%くらいがこれに唱和するわけ」。

〈沖縄人という異質性を自覚した日本人〉これが新崎のアイデンティティであり続けた。すべての仕事が、この軸を中心につくりだされているはずだ。

もう一つは、沖縄の女学生「ひめゆり部隊」の悲劇を知ることを通して「非戦闘員の戦争」という視点をふまえることで、自己の「右翼」的心情と論理が「根底から突き崩され」、〈絶対平和主義〉への思想的通路がついた、という話である。

より具体的なエピソードとしては、一九五六年ごろ全学連のデモの中で、何故沖縄は武装蜂起しないのだろうとの話が出たとき、沖縄戦があった沖縄で武装蜂起などあるわけないと、自分は思ったという回想だ。

この二本の思想軸がうみだした大量の「同時代史」=運動史の再読を媒介に、自分たちの運動史を検証してみる作業、これが私たちに残された課題である。私と彼の個人的な対話のスタートは、広島の松江澄さんからの依頼で、一九八七年の〈八・六〉集会の発言者として、彼に声をかけるという任務から始まった。東京からの依頼の電話に、彼は、あの不機嫌そうな声(こういうブッキラボーな対応は、その後も不変であった)で、快諾してくれた。その時、予定されていた天皇ヒロヒトの訪沖がもたらす、沖縄(死者共同体)社会での政治力に危惧の念を語った私に、彼は皮肉っぽく「沖縄では、天皇といえばあの沖縄売り渡しのメッセージしかイメージされないよ」と答えた。アキヒト天皇歓迎一色に見える沖縄。その中に、もう一度この新崎の言葉を置いてみたい。ひたすら無愛想、そのくせ出会った時の突然フレンドリーな笑顔。そういう人であった。

(天野恵一)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

【集会報告】3・ 24 集会報告 天皇の沖縄・与那国訪問を問う

三月二四日午後六時から見出しの集会が、東京・駒込地域文化創造館で約五〇名の結集で開催した。集会は冒頭、司会者が次のように挨拶した。

《天皇アキヒトが沖縄訪問する三月二七日は、『明治』天皇制太政官政府の命を受けた松田道之処分官が、警官一六〇名、熊本鎮台分遣隊約四〇〇名を従えて首里城に押し入り廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じた日である。与那国に行く三月二八日は二年前、陸上自衛隊・沿岸監視部隊の駐屯地が与那国に開設された日である。アキヒトの沖縄・与那国訪問は、日米両政府による辺野古新基地建設をはじめ琉球弧の軍事植民地化のための宣撫工作である。》

お話は、大仲尊さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)が、「自衛隊配備と天皇の与那国訪問」と題して報告した。

《私は一九四九年、与那国生まれで一五歳の時に那覇に行き、その後ヤマトに住んでいる。沖縄戦では与那国は空襲がなく、日本軍の食糧調達のためマラリア地帯であった西表や石垣に住民を強制疎開させた結果、マラリア被害で多くの人が亡くなった。被害の問題はまだ決着がついていない。

報道によれば天皇は、与那国で最初に東牧場の「与那国馬」を見る。その後複合型施設で「ヨナグニサン」(沖縄県天然記念物・世界最大級の蛾)を見る。そこは、自衛隊駐屯地から徒歩で行ける距離にある。駐屯地に行くかはわからないが自衛隊幹部と会うだろう。そして久部良小学校で郷土芸能・棒踊りを見て、漁業協同組合に行く。漁協は、保守の地盤である。その後、日本最西端の碑を訪れるらしい。

戦中有名な与那国出身の二人がいる。一人は伊波南哲、一九四三年作の与那国の詩で与那国島を「南海の防波堤與那國島」「沈まざる二十五万噸の航空母艦」と称して今も祖納にある「讃・与那國島の碑」がある。あと一人は戦死し、「軍神」とあがめられた大枡松市、大枡に続けといわれていた。その弟が元沖縄県警刑事部長であった。自衛隊配備でこのことが過去の話ではないと思える。

自衛隊が入ってきて二年。誘致派は自衛隊と家族三五〇人によって経済が活性化すると言っていたが、現実はそうなっていない。自衛隊員が迷彩服のまま空港や居酒屋に来るようになった。「菊の御紋」があることによって、天皇の権威が生まれ、村八分があるように、自衛隊がきたことによる島の分断が天皇訪問後一層深まるだろうと心配している。》

続いて天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)が、「アキヒト天皇と沖縄」と題して報告した。

《自分達が、天皇と沖縄の問題を意識するようになったのは、天皇ヒロヒトが沖縄・海邦国体(一九八七年)出席のため沖縄を訪問しようとしたことに対して反対運動を準備する過程であった。ヒロヒトは、なぜ沖縄に行かなければならないと思っていたのか。それは「国体護持」のための沖縄戦で「集団自決」を強要し、安保条約の下で売り渡した沖縄を日本国家に統合するのは自分の務めだと思ったのだ。しかし沖縄訪問は果たせなかった。

私は知花昌一さんの救援会(日の丸焼き捨て裁判)にかかわり、その過程で「ひめゆりの塔」火炎瓶闘争の知念功さんの『ひめゆりの怨念火(いにんび)』(インパクト出版会)の出版を手伝ったりした。その中でなぜ裕仁が沖縄に行けなかったのかわかった気がした。

当時、屋良県政はアキヒト皇太子の来沖を受け入れたが、組合レベルでは、「戦犯天皇の上陸を許すな」の闘争があった。火炎瓶闘争だけがとりざたされているが、それは大衆的な抗議行動の象徴的なものであったことを学んだ。ヒロヒトからアキヒトにかわっても変わることなく天皇制の問題として捉え、糾弾する視点があった。アキヒトは今回で一一回目の沖縄訪問であるが、国家・天皇制が強いた犠牲を「慰霊・追悼」することをもってその責任をあいまいにする政治である。》

フロアーから北村小夜さんが、当初から知花さんの支援を行っていたが、「日の丸」の問題だけでなく、「障害児」のことでも議論したことを話された。ピリカ全国実の仲間から「アイヌ民族抹殺の司令官だった天皇の『北海道150年』式典(八月五日)出席に反対しよう」と訴えがあった。

次に、清水早子さん(止めよう!「自衛隊配備」宮古郡民の会)からの連帯メッセージが読み上げられた。│沖縄の元海兵隊員による│性暴力殺害から2年 基地軍隊はいらない4・29集会実行委、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックから連帯アピールを受け、最後に「天皇の沖縄・与那国訪問を許さない!集会宣言」を採択し、4・28「明治150:日本による沖縄差別を問う 近代天皇制国家形成から日米安保体制のもとで」、29日デモへの結集を訴え集会を終えた。

(野村洋子)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

 

【集会報告】3.24-4.28-4.29連続行動

私たち「天皇『代替わり』と安保・沖縄を考える4・28-29行動」は、実行委の名称にあるとおり、今年も4・28(「沖縄デー」)と4・29(「昭和の日」)を、連続して行動する日として位置づけ、28日の講演集会と29日のデモに取り組んだ。

今年は、三月二七日から二九日にかけておこなわれた明仁・美智子の沖縄・与那国訪問に反対する集会を準備することから、実行委の活動をスタートさせた。天皇が沖縄を訪れたのは、いわゆる「琉球処分」によって近代天皇制国家が沖縄を日本の版図に編入した、まさにその同じ日である。同時に二年前の三月二八日は、与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置され、この地が、文字通り「離島防衛」の最前線に置かれた日なのである。今年、天皇が沖縄に入ったまさにその日に、陸上自衛隊の「陸上総隊」が発足し、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)も置かれた。そういう時期に、そういう場所を天皇が訪れる。「平和天皇」イメージとは裏腹に、天皇制と軍隊の露骨な結びつきが、そこにあったのだ。

私たちは、天皇の沖縄・与那国訪問を前にした三月二四日に、駒込地域文化創造館において、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの大仲尊さんと、実行委の天野恵一を発題者として「天皇の沖縄・与那国訪問を問う」討論集会を持った。

そして四月二八日には、那覇市出身の近代法制史研究者である湖南通さんの講演集会を持った。

今年の2・11反「紀元節」行動においても課題として打ち出した「明治一五〇年」を批判的に問い直すという課題を、近代天皇制国家による沖縄支配の現実をとらえ返す中で考えたいという問題意識があった。文京区民センターで行われた集会には約一〇〇名が参加。講演の後には、一坪反戦関東ブロック、基地・軍隊はいらない4・29集会、安倍靖国参拝違憲訴訟、警視庁機動隊の沖縄派遣に対する住民訴訟、優生保護法や元号など、さまざまな課題と取り組む団体からアピールを受けた。

翌二九日には、神田駅近くの常盤公園に集合し、反「昭和の日」銀座デモをおこなった。デモ出発前には、実行委から二八日の集会報告、元号はいらない署名運動、辺野古への基地建設を許さない実行委員会からのアピールが行われ、またデモの解散地点では、多摩地域メーデー、明治公園オリンピック追い出し国賠訴訟、労働運動活動者評議会のアピールを受けた。

一〇〇人ほどのデモは、随所で街宣右翼の宣伝カーの妨害に遭い、数寄屋橋周辺には在特会系の「カウンター」などもあり、また解散後には右翼の待ち伏せなどもあったが、直接物理的に接触するような場面はほとんどなかった。それに比べ、右翼を理由にした警察・機動隊の介入は相変わらずひどく、実行委としては、警察に対する「苦情申し立て」など、原則的な抗議を重ねるべく準備しているところだ。

すでに、8・15に向けた活動も準備しており、また、首都圏の反天皇制運動の枠で取り組んでいる「元号はいらない署名運動」でも、七月二一日に集会を準備している。8・15以後も、秋から来年にかけて、本格化する天皇「代替わり」攻撃に抗するさまざまな取り組みを、連続的に打っていくことになるはずだ。引き続き、多くの方々の注目と参加をお願いします。

(北野誉)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

【学習会報告】 君塚直隆『立憲君主制の現在─日本人は『象徴天皇』を維持できるか』 (新潮選書、二〇一八年)

著者は関東学院大学でイギリスの政治外交史を講じており、イギリス王室が専門で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」では昨年三月の第十回でヒアリング。イギリスや欧州各国の君主制の事例をもとに、天皇退位後の地位や活動、呼称などについて陳述している。ちなみに、明仁には退位後も「国際親善」の役割を担ってほしい、というのが君塚の「提言」だった。

この本は冒頭で「第一次大戦後にドイツ皇帝の体制を崩壊させたからヒトラーがのさばる心理的門戸をひらいた」とした当時のベヴィン英外相の発言をひく。歴史を読み解けば、戦後の「民主化」にもさまざまな可能性がありえた。それにもかかわらず、天皇制の戦争責任も侵略責任もあらかじめなし崩しに、天皇制の存置を、「連合国」首脳の言に基づき所与の前提とするのが著者の立場だ。

すくなくとも、「君主制」とされる国家体制を政治史から論じるなら、各国憲法の内実、王の権限の制約、民主制と君主制の相互の影響や侵犯の具体的な形相をこそ語るべきで、そのためには、憲法をめぐる学説や比較史にも相応の論点の提示があっていいはずだ。この本も、イギリスの「立憲君主制」についてはそこそこに叙述の分量を割いてはいるのだが、それについても通史的な解説のみであり、端的に言えば「現在ある君主制」をそのまま擁護するために、歴史からエピソードを拾い集めてきたにすぎないと言いたくなる。

この本の中では、英国以外では、北欧三国の王室の「君主制」、ベネルクス三国の王室の「君主制」については、それぞれを比較可能な「体裁」で扱ってはおり、この部分はそれなりに便利だ。しかし、その基調として流れるのは、欧州の「先進国」だって「君主制」だからそれでいいのだ、という傲慢なメッセージであり、民主制のありかたには踏み込もうともしない。第一次大戦、第二次大戦を経て、いくつもの国家は君主制を否定し民主制を選択した。その多くは専制君主制の独裁に対する批判により、悲惨な歴史を生みだして崩壊するべくして崩壊した。著者は、そうした選択や歴史をこの本の中でいっさい捨象している。大日本帝国=明治の天皇制についても同様だ。

「日本人は『象徴天皇』を維持できるか」、もちろん結論はあらかじめ「維持せよ」と設定されている。裕仁の「昭和」と明仁の「平成流」は「国民生活に安定」をもたらした、皇位継承問題は残るが、より「開かれた皇室」をめざそう。天皇の高い「道徳的規範」と、臣民の「寛容さと賢慮」で「国民の理解を得られることを切に願っています」というのが、この本の結びである。

ところで、ぶっちゃけ、いまこの日本国家は民主制なのか? 腐敗・頽廃した国家について政治体制の教科書的形態を論じるのは虚しい。実質的な面でいうなら、縁故主義やハラスメント支配が官僚体制にまで蔓延したフツーの独裁国家だろ?……と胸に問いながら、次回は、天皇論を「ご真影」などメディアに現われた姿から論じている、鶴見良行の「日本の写真」(鶴見良行著作集1所収)です。入手困難な方はご相談を。

(蝙蝠)