「報告」カテゴリーアーカイブ

反天皇制運動の情報を更新しています

反天皇制運動の記事を定期更新するウェブサイトを設置しています。

反天ジャーナル
https://www.jca.apc.org/hanten-journal/

これまでの「反天皇制運動」のコラム記事から、さらに情報をピックアップして掲載していくことを考えて、2022年春に立ち上げました。
この「反天皇制運動連絡会」のサイトとは違ったかたちで、編集を更新していく予定です。定期的に更新しますので、チェックしていてください。

【集会報告】2.11−23 連続行動報告

 天皇代替わりにより「天皇誕生日」が2月23 日となったことにより、隣接する2月11 日の反「紀元節」行動と連続して、「天皇誕生日奉祝」に反対する行動に取り組むこととなった。2・11 は反「紀元節」デモ、2・23 は屋内での討論集会。

 2・11 のデモは、西早稲田の日本キリスト教会館に集合、3・1東京集会(2・27 に屋内=リモート集会、3・1は新宿キャンドルアクション)実行委、オリンピック災害おことわり連絡会、即位大嘗祭違憲訴訟、アクティブ・ミュージアム(wam)の4団体からのアピールを受けた。そして「なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化2・11 東京集会」からの連帯アピールを紹介し、「集会宣言」を読み上げてデモ出発した。デモは、早稲田から高田馬場駅前を経由して戸山公園の手前での解散。参加は90 名強。

 2・23 討論集会は、文京区民センターで「『天皇代替わり』とは何であったのか——再定義された象徴天皇制」と題して行われた。実行委から3名がそれぞれの角度から新・天皇制に迫った。めずらしく十分な時間を討論に充てることができ、さまざまな意見が交わされたが、議論が深まったとはいえなかったことが残念ではあった。参加は90 名。

(K)

【学習会報告】黒田久太『天皇家の財産』(三一書房、一九六六年)

 近代天皇制の経済的面については、研究文献の少なさもあって、私たちは知っているようで知らないことも多い。本書は古い本だが、当時調べられるだけの資料に当たり、事実追跡を主眼にしたと著者が言うだけに、今日でもずいぶん役に立つ本だ。明治国家指導層が憲法制定に当たって、国家の根幹への議会の関与を極力せばめる意図から国家財産のある部分に皇室財産の形をとらせて不可侵化させ、元来私的資産をほとんど持たない皇室を巨大な「財産家」たらしめたこと、この皇室財産が株式・国債の運用益と広大な山林経営の収益によって一九四五年まで抜け目なく蓄積され続けたこと、が本書からよくわかる。

 報告は戦前に関する記述の紹介を主とし、戦後憲法下の皇室経済については私たちも従来比較的よく知っているから簡略になされた。しかし戦前と戦後では状況は一変しているが、いくつかの本質的な面で継承性があることは討論でも問題になった。皇室財産はほとんど固有財産に移されたが、国から皇室への供与・貸与(と言っておく。皇居など)に対して、厖大な公的行為にかかわる経費をも含めて、国会(人民)の関与は微弱であること、戦前の皇室財産は国家が自分の目的から設定したもので、その収支に皇室自身の恣意性が働く余地が狭かったが、それは戦後も続いていて、与えられた経済生活の埒をあまり自身で越えようとしない(他国王室に比べて「自由度」が小さい)らしいことなど。

 本書は戦後天皇制が権力と自立的経済力を失ったことで形骸化の方向に進むと見ているようだが、この点は私たちは賛成できない。戦後天皇は支配集団の一体性の柱、国民意識安定の支えとして、こんにちも重要な政治的存在でありつづけているのだ。

 次回は小菅信子『日本赤十字社と皇室』(吉川弘文館)を読む。

(伊藤晃)

【集会報告】「紀元節」と「天皇誕生日奉祝」に反対する連続行動報告

 二月一一日(木)、反「紀元節」デモ。九〇名を超える参加者とともに早稲田のキリスト教会館で簡単なデモ前集会を行った。3・1東京集会(2・27)・新宿キャンドルアクション(3・1)、おことわリンク、即位大嘗祭違憲訴訟、アクティブ・ミュージアム(wam)の四団体からアピールをもらい、「なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化 2・11東京集会」からの連帯アピールと集会宣言を読み上げてデモ出発。アピールではいずれも深刻な課題が提起された。

 デモは高田馬場駅付近の戸山公園の手前で解散。警察による規制線が張られていたため、右翼の騒音は集会会場には響かなかったものの、コース要所の交差点には街宣車が待ち構え、機動隊に取り押さえられたり、日の丸を振りながら執拗についてくる右翼も少なくなかった。やや肌寒く感じたが、われわれの熱気はそれを上回った。

 二月二三日(火)、文京区民センターで「天皇誕生日」奉祝に反対する集会。八七名の参加があった。「『天皇代替わり』とは何であったのか――再定義された象徴天皇制」と題して、天野恵一、桜井大子、北野誉の三人の発題のあと、集会参加者との討論を行なった。

 近代以降初めての「譲位」により上皇、天皇、そして昨年11・8の「立皇嗣の礼」で、次期天皇の座についた秋篠宮による、権力の三つ巴状況を指摘し、宮内庁発表の新年の天皇家写真の変遷から、傍系に流れる皇位と、女系・女性天皇の可能性を批判。活発で有意義な意見討論が行なわれた。最後に「3・11を反天皇制・反原発の日に!」集会、「やめろ敵基地攻撃大軍拡」3・27集会、おことわリンクからのアピール。

 神武天皇の即位日とされる2・11と、徳仁の誕生日である2・23の近接は、否応なく「万世一系」を想起させ、「国民」に祝賀を強制する。これからも共に声を上げ続けよう。

(黒薔薇アリザ)

【学習会報告】遠藤興一『天皇制慈恵主義の成立』(学文社、二〇一〇年)

 皇室はいつから福祉に関わるようになったのか。赤子である国民に、国父として恵みを垂れる家族的天皇像は、いつから国家に利用されるようになったのか。本書はそうした疑問に答える数少ない研究の一つだ。

 近代国家成立にともない、西欧の立憲君主制に範をとり、王政復古の名で儒教的倫理観を国民に強いた日本帝国にとって、慈恵主義は、上は下に慈恵をもたらし、下は上に忠誠を尽くすという重要な相互的演出の一つだった。貧窮者に慈愛(charity)を施すことは、王室の高貴な義務(noblesse oblige)であり、国家がそれを制度化することは、国民の支持や恭順(pietët)を得るうえで重要なことだった。

 内廷費と、国庫を通さず、天皇家に直接納められた日清・日露戦役の莫大な賠償金は、国家や社会ではなく、篤志家天皇による地震、噴火、風水害、火災時の恩賜、下賜金となり、福祉財団や罹災救助基金として制度化された。

 光明皇后の施薬院、悲田院の前例にあやかり、日本赤十字社設立に尽力した美子(昭憲)、病気の夫を支え、救癩事業に心を寄せた節子(貞明)、福祉施設を巡啓した良子(香淳)らは、彼らの大葬時の下賜金によって、死後も模範的な「国母陛下」像を演じてきた。東京慈恵会病院の総裁は代々女性皇族が就任している。

 その仕組みは、GHQにより皇族財産が整理された戦後も続く。ヒロヒトの全国巡幸にはじまり、皇族は福祉施設利用者に温かい言葉をかけ、その庭にはお手植えの樹が並び、「仁愛」を可視化した。明治四四年に設立された恩賜財団済生会の現総裁は文仁だ。

 皇室による福祉や罹災民への寄付、慰問、ねぎらいは中々批判しづらい。しかし、その金がどこから出たもので、近代以降どのように国家とマスコミにより演出されてきたかを理解すれば、その偽善性は浮き彫りになる。そして何より、ともすれば社会的弱者に憐憫や同情の眼差しを向けてしまう、われわれ自身の内なる慈恵主義、パターナリズムに気づかせてくれる良書。

 次回は、本書にもたびたび引用された黒田久太『天皇家の財産』(三一書房、一九六六)を読む。

(黒薔薇アリザ)

【学習会報告】坂野潤治『明治憲法史』(ちくま新書・二〇二〇年)

 憲法を軸にして近現代日本の(政党)政治史を捉えるときに、明治憲法の時代─総力戦の時代─日本国憲法の時代として、つまり「戦前」・「戦中」・「戦後」として分けて捉えるべきだ、と言う著者は、「平和と民主主義の時代」は戦後だけでなく戦前にも存在していたのだ、「戦前」は「戦後」へと引き継がれたのだ、とも言う。ここで言われる民主主義とは、藩閥勢力が天皇大権を強くして議会権限を弱めるようにつくられた明治憲法体制の構造上の制約のなかで、選挙で当選した代議士が集まる議会の勢力配置を反映させた政党内閣の地位をいかにして確保するかをめぐる憲法解釈と諸政党の模索のことであり、平和とは軍部を縛る憲法解釈に基づいた立憲的な政治による軍部の抑制のことである。このような視点から整理された本書は、たとえばかつて天皇機関説と政党内閣の正当化、そして軍部に一定の立憲主義的な縛りを加えた美濃部達吉が、軍部・官僚・専門家を集めて政策立案をする内閣調査局と内閣審議会という「上からのファシズム」の機関の原型(円卓巨頭会議)を提唱し、議会に代わるべきだ、と主張したことを国家社会主義への転向だと指摘するなど面白い論点が散りばめられている。

 とはいえ、坂野の言う自由と民主主義の「戦前」なるものは治安警察法や治安維持法などを不問に付して議会外の自由と民主主義への実践を無視することで成り立っていると言わねばならないし、帝国主義本国が破局的な結末をむかえる日中戦争以前を「平和」だと捉えるのは、植民地主義の下で抑圧されていた人びとが常に非常事態=戦争状態であったことを忘却することでしかないだろう(まさしくこれは「戦後」に継承されるものだ)。それに立憲主義が軍部を抑制していたとしても、その立憲主義が徹底された先に果たして日本帝国主義の解体はあったといえるだろうか、と問うべきである。著者の視点はあまりに内向きすぎる。だから「戦後レジームからの脱却」を息巻く自民党に対して「誤って総力戦時代に戻らないかぎり、戦後デモクラシーから脱却すれば戦前デモクラシーに戻る」なんて言葉が出てくるのである。

 次回(一月一九日)は遠藤興一『天皇制慈恵主義の成立』(学文社)を読む。

(羽黒仁史)

【学習会報告】山田朗『日本の戦争Ⅲ 天皇と戦争責任』(新日本出版社・二〇一九年)

 本書は、天皇の戦争責任回避の根拠として定説となっていた、天皇「無答責」論と実態としての天皇の戦争不関与という間違いを正していくことを大きな目的に編集されている。一九九五年の「現代における〈戦争責任〉問題──天皇の〈戦争責任〉論を中心に」から、二〇一六年「『昭和天皇実録』の軍事史的分析」と、およそ二〇年間に書き積み上げられてきた研究論文の集大成である。

 著者は、様々な言論によって作り出された昭和天皇裕仁=「無力で戦争に消極的な立憲君主」といったイメージを覆すために、一次資料を丹念に読み、裕仁はただ座ってハンコを押すだけの無能・無害な君主では決してなかったことを証明するため、長期にわたる研究を続けてきた数少ない実証主義歴史研究者だ。一方で、裕仁の戦争関与に関する実態を暴露していくことで、これだけ作戦等への関与があったのだから戦争責任なしとは言わせないといった主張の新しさと説得力の強さに私たちは気を取られすぎ、明治憲法下で大元帥・戦争の最高責任者という地位にあるというだけで逃れようもないはずの責任から、逃れきったことの問題は伝わりづらくもなっていたかもしれない。著者にとっては当たり前のことであっただろうその側面が、それが目的であったかどうかはさておき、そのあたりもフォローされるような編集となっており、完璧さは増し、裕仁断罪への執念を感じさせる一冊だ。

 学習会では、天皇の曖昧で漠然とした「下問」によって作戦が変更されたりするあたりの詳細な記述に、天皇制の「忖度政治」の「伝統」を読み、天皇のわがままぶりに呆れ、久しぶりに裕仁への悪口三昧で盛り上がった。

 次回は、一二月一五日(火)、坂野潤治『明治憲法史』(ちくま新書)を読む。

(大子)

【集会報告】天皇も跡継ぎもいらない! 「立皇嗣の礼」反対緊急行動

 「立皇嗣の礼」が強行された一一月八日、「天皇も跡継ぎもいらない 11・8『立皇嗣の礼』反対緊急行動」が原宿・神宮橋で取り組まれ、渋谷・宮下公園までのデモを行った。主催は、「国家による『慰霊・追悼』を許すな! 8・15反『靖国』行動」。

 閣議では、この日各府省で「日の丸」を掲揚するほか、地方自治体や学校、会社などに掲揚への協力を求めることを決めた。衆参両院などは、「立皇嗣の礼」に祝賀の意思を表す「賀詞」を、決議していた。あらためて秋篠が「次」の天皇であると宣言するこの儀式は、まさに一連の「天皇代替わり」儀式の最後に位置づけられるものである。

 デモ出発前のアピールでは、主催者あいさつに続いて、反戦・反天皇制労働者ネットワーク、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)、オリンピック災害おことわり連絡会から連帯アピールを受け、最後に実行委メンバーが「緊急行動アピール」を読み上げた。

 集会後、表参道から渋谷に向けたデモに出発。「立皇嗣の礼に反対!」「天皇も皇嗣もいらない!」「皇位継承の儀礼を認めないぞ!」などのシュプレヒコールを響かせた。

 このデモに対しては、随所で右翼の攻撃が目立った。明治通りでは、デモ隊に突っ込んできた右翼によって転倒した参加者が負傷させられた。右翼の暴力を許さず、原則的に反天皇制運動を持続していこう。参加者は九〇名。

(北野誉/実行委)

【学習会報告】福間良明『戦後日本、記憶の力学 ──「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社・二〇二〇年)

 著者がここで扱っている論点として、はじめに選んでいるのは「靖国神社、千鳥ヶ淵」「広島、長崎」「沖縄・摩文仁」だ。戦後史の経過で、これらをめぐる政治的にもきわめて重要な論点を、目配りよく整理している。続けて映画などの表現をも引きつつ、受け入れがたい「記憶」がソフィスティケートされていく経過を追い、さらに、これらが「現代化」「脱歴史化」されて「継承」されていることの問題を取り上げる。

 叙述には、資料を渉猟していることもうかがえて、いまなお現代史においても思想史においても重要な、「戦争の記憶」を考えるための論点が数多く提出されている本だ。参加者のいずれも読後の評価はおおむね高いものであり、本書がまとめられた後に起きた現在的な「コロナと政治・社会」の問題について、別途に「付記」を入れたジャーナリスティックな問題意識も好感の持てるものだった。

 議論の中で話題となったのは、これだけの整理をしてみせた一九六九年生まれの著者がまさに学生時代に出会ったはずの、裕仁の死と代替わりという戦後史上の大きな変化を、どのように認識したかについて叙述でまったく避けていることの「奇妙さ」だ。

 橋川文三、安田武や鶴見俊輔の天皇体験と天皇への(好意的)評価については触れられず、この問題について厳しく問い続けた平井啓之の論もないのはなぜか。靖国をめぐるテーマなら、加藤典洋や高橋哲哉の論について、同時代的には触れるところではないのか。エピローグでは、九〇年代以降の議論を「実証史学」の観点から「図式」「予断」が先行していると、やや裁断してみせている。それがまったく当たらないわけではないだろうが、逆にいうと、これらの議論に踏み込まないのは、分析への方法論に欠けるところがあるからではないかとも思わせるのだ。著者が、他の仕事では戦後史の中の大衆的な「教養」「文化」を扱いながら、自分史的にもなりうる議論を避けるのは、自身の「断絶」「無難」さへの志向があるのではないか。

 次回は、一一月一七日、山田朗『日本の戦争3 天皇と戦争責任』(新日本出版社)を読む。         

(蝙蝠)

【学習会報告】中里成章『パル判事──インド・ナショナリズムと東京裁判』 (岩波新書・二〇一一年)

 日本の右翼は外国のインテリに「大東亜戦争」を肯定させるのが好きらしい。かつてのヘンリー・ストークス、今のケント・ギルバートが好例だ。その先駆けがパル判事であり、田中正明『パール判事の日本無罪論』は一九六三年の出版以来、新版となり現在まで売れ続けている。そんな従来の「日本無罪論」(無論パルが主張したのは被告人個人の無罪であり、日本国家の無罪ではない)を批判したのが中島岳志『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社、二〇〇七)と本書だ。

 中里はイギリスの植民地から独立してゆくインドのナショナリズムを分析する。パルも、ヒンドゥー大協会や、チャンドラ・ボースにシンパシーを抱くインドの右翼であり、戦後「逆コース」の日本の右翼に利用された一面が大きい。東京裁判の一一人の判事の中でもパルは思想も経歴も異色であり、「平和に対する罪」の事後法の無効を訴えたのは評価出来ても、主流派判決に従う署名への拒否、被告人席への一礼、公判の四分の一を欠席してホテルの一室で黙々と意見書を執筆する姿は多くの疑念を招いた。そんなパルが一九六六年、戦後三度目の来日を果たし、岸信介と清瀬一郎の申請で昭和天皇から勲章をもらうことにより、天皇を実質的に免責したのは最悪の結末だった。

 東京裁判の根本問題は、日本軍の最高責任者である天皇が訴追されず、証人としてさえ法廷に立たなかった点であり、これでは共同謀議が正しく裁けるはずがない(共同謀議が民間に適用されれば危険だが、戦争防止の観点から対国家には適用されてしかるべきだ)。そこが白日の下にナチスを裁いたニュルンベルク裁判と大きく異なり、GHQの徹底的な情報統制をもたらした。津川雅彦演じる東條英機が、天皇に忠実であったにもかかわらず、裁判では「陛下」に背いて戦争を遂行した「不忠の臣」として身代わりとなる姿は伊藤俊也監督『プライド・運命の瞬間』(東映、一九九八)でも印象的だった。

*次回は一〇月二〇日、福間良明『戦後日本、記憶の力学─「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社)を読む。

(黒薔薇アリザ)