【学習会報告】阿満利麿『日本精神史: 自然宗教の逆襲』(筑摩書房、二〇一七年)

天皇制というものが、日本人にとって無条件の「信仰」= 一種の「天皇教」ともいうべき存在でもあるにも関わらず、そのような捉え方が社会的にはほとんどなされていないこと。この問題の大きさを、反天皇制運動にどう接合することができるかということを考えることが多い。そういう問題意識にある程度応える本だ。

読後感はかなりよかった。日本人にとって、宗教、あるいは無宗教であることに対する世間的無関心があるのに、天皇に対する宗教的崇拝だけは、敗戦後から現代にいたるまで一貫して衰えることがない。実は、この無宗教天皇崇拝も日本の「自然宗教」に根を持っている。日本人の多くが自然宗教の信者である--そう断言する阿満の議論は、なにより象徴天皇制を問題にする私たちの実感に、きわめてフィットするものである。

この間の学習会と連続するのが、第2章「人間宣言-日本人と天皇」。表紙にも使われている一九四七年一二月七日のヒロヒトの「広島巡幸」において、敗戦と「人間宣言」にも関わらず、「神」であろうが「人間」であろうが天皇にひれ伏す民衆感情の根にあるものは何かと問う。阿満は、そこで日常世界の延長線上に非日常的な存在を保持しておきたいという民衆の現世主義的な願望をさぐり、戦後における無責任体制をも根拠づけていく。

この、自然宗教(= 自然発生的な宗教)の対概念としてとらえられているのが創唱宗教で、以後の章は、民俗学や仏教史を駆使し、法然・親鸞らの創唱宗教としての仏教が自然宗教によっていかに解体されていったか(教団自体の制度化も含めて)が論じられている。

論点としては、自然宗教という視点は、象徴天皇制のあり方を捉える上でヒントになる。他方、戦前の天皇制を支えた国家神道は、創唱宗教にカテゴライズしてよいのではないか? 天皇制における自然宗教/創唱宗教の二重性があり、人間宣言は、近代天皇制の「自然宗教」への「撤退」ともいえるのではないか。阿満も、非教団的仏教者(?)という自らの立場から、宿命論を超える道筋を提示しているが、われわれとしてはそれはどうありうるか。創唱宗教と普遍宗教との対比で、概念規定がよくみえないところがある。丸山真男らの「オーソドックス」な思想史整理の方法に制約されている部分がありはしないか(たとえばその福沢諭吉理解)。民俗学的な語りのなかに存在する歴史的超然性にたいしては、批判的であるべきではないか、など活発な議論になった。

次回は七月二五日(火)。テキストは平井啓之『ある戦後:わだつみ大学教師の四十年』(筑摩書房、一九八三年)

(北野誉)

【今月のAlert】「共謀罪」廃案!軍事国家・警察国家はゴメンダ!

六月一五日、「共謀罪」の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法が成立した。「森友学園」「加計学園」問題の説明責任も果たさず(安倍は逃げ切った感か)衆院での強行採決に続き、参院では参院法務委員会での採決を省略し、「中間報告」という卑劣な手法で採決。

「暗黒時代の始まり」「軍国主義化の総仕上げ」「社会の分断」などの声が各方面から聞かれ、抗議声明も多数だされた。

『警察捜査の正体』の著者・原田宏二は、「警察に新たな『武器』を持たせることになった」といい、元刑事裁判官の木谷明は、警察の市民監視の活発化を指摘し、「『組織的犯罪集団』『実行準備行為』も歯止めにならない。自分は『一般人』だと思っていても、警察に疑われたらそれまでだ。法文は曖昧だから、どのようにも解釈できる」とインタビューで危険を指摘する。

審議の過程で、警察による写真やビデオ撮影がなされることへの危惧が呈されたが、私たち反天皇制を掲げたデモはすでにそのことが常態化している。
毎回、尋常ではないビデオがデモ隊に向けられ、その数は増すばかりである。その違法性を訴えても、気にも留めない素振りで撮影を続ける。警官のなかには違法だと認識していないと思われる者もいる。最近では撮影者への抗議を、デモ隊を囲っている機動隊が妨害するようになり、所轄の警官が警視庁に気を使うかのような行為も見られるようになった。

どんなに不当なことであっても、「警察の正義」が「正義」であるという不条理がまかり通るということを、私たちは反天皇制の運動をとおして、肌感覚で体感している。だから木谷がいう「疑われ」より以前の、警察の思惑で犯罪者を自在に仕立てあげることが出来る、もっと恐ろしい法律だといいたい。

軍事化とともに警察国家になっていくことに心底恐怖を感じる。けれども、私たちは萎縮することなく、どのような抵抗ができるか仲間たちと諦めずに模索し繋がっていきたいと思う。

「共謀罪」はただちに廃案にし、これ以上警察国家にしてはならない。

ところで、この国会で安倍首相はさかんに、「印象操作」という言葉を繰り返した。政治にその要素は多分にあると思うが、そもそもその分野が得意なのは安倍内閣ではないか。そしてそこでは、メディアが非常に大きな役割を果たす。

国連人権理事会の特別報告者デビッド・ケイは政府によるメディアへの圧力に警鐘を鳴らした。それほど、この国の報道の自由には制限がかかり、萎縮が進んでいる。そのメディアを通じて六月末より内閣官房と消防庁の「弾道ミサイル」落下時についての動画CMが流されるようになった。いよいよ自民党の九条改憲論議が始まり、公明党に媚びた九条加憲を新提案し、何がなんでも自衛隊の存在を合憲化しようというこのタイミングでの放映である。ミサイルから身を守るため、隠れるものがない場合は床に伏せて頭をガードして下さいと、まるで戦中の焼夷弾訓練のバケツリレーではないか。原発再稼働に邁進しながら、こんな子どもだましで危機を煽る。前振りは北朝鮮のミサイル報道、伏線は昨年大ヒットしたシン・ゴジラというところだろうか。

お茶の間のTVでミサイルから身を守るためのCMがまことしやかに流れてくる時代になるとは、正直愕然とする。

特定秘密保護法、安保法制、共謀罪と数の力で押し切られてしまったが、それでも国会前は抗議の人々で埋め尽くされたし、与党の抵抗も見られた。

けれども、天皇の「退位特例法」においては「翼賛国会」としかいいようがないものであった。一貫して「神聖にして侵すべからず」の空気が息づいていた。まったく天皇制ほど「印象操作」された政治はないだろう。神話に基づく「万世一系」を人はなぜ現代においてさえありがたがらなければならないのか。

二〇一九年天皇「代替わり」、翌年二〇年に施行を目指す新たな憲法改悪、そして東京オリンピック。
その対抗軸を考えていきましょう。
決して操られることのない個に目覚めた人たちよ、ともに!

(鰐沢桃子)

【表紙コラム】

二週間ほど前、東京にいる中学時代の友人二人と会った。一人は東大の経済学部教授でもあったので私は「よりましな資本主義国家てのはあり得るのかね?」と尋ねた。「そりゃあるさ。スウエーデンなんか……」と答えたので「そうかね、武器輸出大国だけどね。」と私はつぶやいたのだった。

「強欲」やら「ポピュリズム」やら、グローバル時代の今日の資本主義諸国家は、貧富の差(格差)の拡大や、次世代へのつけ回し、民族排外主義の伸長、失業問題の未解決などの状態に立ち至っている。その中でスウエーデンは確かに「よりまし」なのかもしれない、と私も思うのだが……。

「革命をへて共産主義を実現する以外に、貧困と戦争は根本的に解決しない」という立場は、現実的・具体的な場での改良=よりましなものを実現する、ということを、軽視・無視する傾向をもった。そうはいっても労働組合運動などでは、「改良」はそれぞれの人間の「現実的生活改善」にはなるので、「革命的な指導者」といえどもそのために行動せざるをえないのだが。私自身、現実的「よりまし」追求の運動に、大きなエネルギーが結集する経験を重ねてきた。

暴走する国家・社会に抵抗する私(たち)の立場はどのようなものなのか。
「民主と人権」が大きな核であると思う。これはいくつもの大衆運動の原動力であったはずだ。けれど仲間の一部に「安倍に対立するアキヒト・ミチコへの期待」が存在するという。これはたぶん「民主」についての内面も含めた各人の思想・覚悟にかかわることなのだろう。
ならば私たちは、「君主制のないよりましな民主主義を求める」ようアピールし続けるしかないのだと、思う。

(髙橋寿臣)

【月刊ニュース】反天皇制運動Alert 13号(2017年7月 通巻395号)

今月のAlert ◉「共謀罪」廃案! 軍事国家・警察国家はゴメンダ!(鰐沢桃子)
反天ジャーナル◉京極紀子、井上森、ななこ
状況批評◉国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ(遠田哲史)
ネットワーク◉目指せつくばで八〇〇〇人!戦時下の現在を考える講座(加藤匡通)
書評◉『象徴天皇制の成立:昭和天皇と宮中の「葛藤」』(国富建治)
太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈86〉◉「現在は二〇年前の過去の裡にある」「過去は現在と重なっている」(太田昌国)
マスコミじかけの天皇制〈13〉◉〈安倍改憲〉と天皇退位・即位イベントの二重化:〈壊憲天皇明仁〉その11(天野恵一)
野次馬日誌
集会の真相◉6・17 女天研連続講座・ジェンダーと天皇制/6・17 安倍忖度判決!安倍靖国参拝違憲訴訟判決批判(神奈川)
学習会報告◉阿満利麿『日本精神史: 自然宗教の逆襲』(筑摩書房、二〇一七年)
反天日誌
集会情報

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*2017年7月4日発行/B5判16ページ/一部250円
*模索舎(東京・新宿)でも購入できます。

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