【学習会報告】ケネス・ルオフ『紀元二千六百年:消費と観光のナショナリズム』(木村剛久訳、朝日選書、二〇一〇年)

一九三一年の満州事変に始まり、アジア・太平洋戦争へと至る戦争が日本人にとって破滅的な事態を招いたのは歴史的事実である。しかし、その戦時はずっと暗い谷間の時代だったとする理解は、果たして正しいのだろうか。著者は、そうした戦時の理解は、戦後になって定着した神話に過ぎない、と指摘する。

日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争直前の一九四〇年は、皇紀二千六百年であるとされ、万世一系の天皇制国家をたたえるさまざまな記念行事が繰り広げられた。帝国臣民は定時に宮城を遥拝し、皇国史を学び、出版社や新聞社の愛国歌・作文の募集に応じ、聖地を訪れ、百貨店の催事を見に出かけた。また、皇室関連の場所や神社を拡張整備、清掃する勤労奉仕もいとわなかった。

こうした大衆参加を促したのは政府だけではない。民間企業も祝典をビジネスチャンスと捉え、消費を促した。戦時のナショナリズムが消費を刺激し、消費主義がまたナショナリズムを煽っていた、そのさまざまな実例はとても興味深い。

帝国全土にわたる消費と観光を支えたのは近代ナショナリズムである。海外同胞も巻きこんで開催された大イベントは、帝国日本の血統による国民形成と統合の試みであったが、うまくいかなかったことも描かれている。

また本書は、一九四〇年を頂点とする大衆消費社会の到来に焦点を当てながら、同時代のドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとよく似た政治体制が日本でも成り立っていた、とする。つまり、生活が制限され、自由もなかった暗い谷間であったとの捉え方と、丸山眞男の、日本には「下からのファシズム」がなく「上からのなし崩し的なファッショ化」が進んだだけ、とする捉え方も批判する。戦時日本の大衆的行動主義を軽視している、と。

議論では、著者が戦時日本もファシズムと把握しようとする整理に対して、ドイツやイタリアでファシズムが成立したのは共産主義革命を潰すための反革命であり、日本にはそうした現実性はなかった事実も見落としてはならない、との指摘がされた。また、ナチスが行った暴虐が明らかにされた戦後においてもなお、「あの時代は良かった」という回想が少なからぬ体験者がいる事実を含め、ナチス・ドイツを研究した池田浩士さんの仕事や、戦時下日本において、家の束縛からの解放感を実感として持って女性たちが戦争協力していった歴史を分析した加納実紀代さんの女性史研究が、先行研究としてあることも指摘された。本書は、戦時日本像を捉え返すだけでなく、現代のファシズムを考えるうえでも、さまざまな材料を与えてくれており、議論は尽きなかった。

次回は、二月二七日(火)。テキストは、『皇紀・万博・オリンピック:皇室ブランドと経済発展』古川隆久(中公新書/一九九八)

(川合浩二)

【追悼文】追悼・福富節男さん 反天皇制運動の中での交流

〈「老衰」のため〉という福富節男さんの死去の連絡は、「日本はこれでいいのか市民連合」から、私たち「反天皇制運動連絡会」に移ってきて熱心に活動し続けたという、めずらしい経歴の事務局メンバーであった八坂康司から来た。「一二月一八日」に亡くなられたと、福富さんと、運動上の付き合いの長かった八坂はつたえてくれた。九八歳の誕生日をこえた後の死であった。

八坂の電話の後、福富さんとともに動きまわった日々の断片的シーンが、いくつもいくつも私の頭の中に浮かんできた。本当にすさまじい数の会議をデモを、大小さまざまな集会をともにつくってきたのだ。

最後のデモのシーンは、良く覚えている。糖尿病の悪化で、ほとんど歩くことができなくなっていた私は、デモの宣伝カーに乗り込んでいた。デモの出発地点、いつもの通り右翼の暴力的介入で大混乱、殴りかかりつつ「非国民死ネ!」などという罵声をあげる暴力の渦の中を、福富さんがゆっくりと歩いて来たのである。車の窓の外から、私に何か手渡そうとする。私は危険を感じて、いそいで窓をおろして対応すると、「勉(べん)さんの食事管理のためのノートと血糖測定機だ。「気をつけて生きてくれ」と短くつたえて、福富さんはスタスタと歩き去っていった。そのノートは家に帰ってどういうものか理解できたのだが、糖尿病の大先輩である、渡辺勉さんの日々の三食のメニューをこまかく書き込んだものであった。福富さんが、わざわざ彼の長い友人の勉さんのところから持参してくれたのである。私は、九十歳を超えていたであろう福富さんが、こんな危険な場所から、無事にひきあげられるだろうかと、ハラハラしながら、その背中を見送ったことを、昨日のことのように覚えている。おそらくそれは、「デデモクラシーモ暮らし」の人生を自認していた福富さんの最後のデモ参加だったのではないかと、いま思う。

もう一つの思い出のシーンは、一九八八年の四月二九日・三十日に、のべ二千人をこえる参加者で持たれた昭和天皇の「代替りの政治」プロセスでの、都内大結集の第一派の準備の時間だったと思う。私たちは、いくつもの分科会をつくり、ここで広く反天皇制の声を結集させなければ、次のステップはないという思いで必死の努力、自分たちの力量をまったく超えたことの実現のための努力をかさねていた。「共同行動」の事務局の会議(作業)はほぼ連日深夜まで続いていた。その渦中のある日の事である。場所はハッキリしないが、深夜に福富さんと私は奇妙に大きな電話ボックス(どこか人のいない高速道路の中にでもあるようなそれ)の前にいる、そして福富さんが海外電話のためのそのBOXに入り、電話をし出てくる。そして「残念、ダメだった。ドイツからは帰国しているんだが、その翌日のスケジュール、無理はお願いできなかった」と、本当に残念そうに告げる。「しかたないですね」と答えながら、私は、その時この局面で、すさまじい数の講師への発言依頼を引き受けて、人には言えないが(本当はこういう気配りをはりめぐらすような作業は苦手な私が)ヘトヘトになっていたのを見かねて、加藤周一さんへの依頼を(福富さんの提案だったということもあったか)自ら、引き受け、深夜までつきあってくれた時のことである。数学者であった福富さんは、運動を引っぱっていくような方針を出し、主役で活動するタイプではまったくなかった。しかし、運動が力になるように、どう人々に広くつたわる主張(スタイル)をつくりだすかという点については、常に誰よりも運動の中で考えていた人だったと、いま思う。三十歳近く年齢が上の福富さんは、このように長い間いつも運動「現場」の苦労を、ともにしている特別な〈友人〉でありつづけた。

集まりを広げるべく、私たちではとても思いつかない(ただし交渉しだいでは出てきてもおかしくない)加藤周一さんの名をあげ、直接交渉までしてくれた彼と私は、深夜の車道を、「代わりは誰がいいかな?」などと話しながらトボトボと歩き続けた。この深夜のトボトボ歩きは、結果的には、思いもかけぬ大結集をうみだしたこの〈反天フォーラム〉の時の忘れられない思い出の一コマである。

私たちの反天皇制の「共同行動」のリーダー層は、セクトであれノンセクト(あるいは党派をやめた人)であれ、ほぼ大学で全共闘運動の体験者であった(もちろん、それ以外の人も少なくなかったが)。共通していたのはひたすらソフトな「市民(主義)運動」への、強い反発であったと思う(これも、またそうでない人もいたが)。だから、あのような大衆的な広がりをつくりだす力量はなかったと思う。猪突猛進の〈心情的急進主義者〉の群れだったのだから。福富さんは、その群れの内側から、私たちの偏狭さを、とりはらうべく、したたかに動き続けた。私個人でいえば、彼が「ベ平連」などの活動を通して知っていた、実に多様でユニークな人々と交流する機会を、数かぎりなく作ってくれた。人と人の出会いは、自然に人を変える(自己相対化の契機になる〈出会い〉というものは、まちがいなくある)。福富さんと歩いた運動プロセスは、そういうことだったのだ(それが徹底的に少数派を約束された反天皇制運動を思いもかけず大衆的に拡大する主体的契機となったのだ)。福富さんは単なる「市民運動」者ではなかった。東京農工大の教師をしながら、自分が処分された日本大学の全共闘運動に加担する活動(日大闘争救援会)の経験もあり、「全共闘」の急進主義をハラハラした気分で見まもるというポジションは馴れていたのだろう。私たち硬直した運動のスタイルをもみほぐし続けてくれたのだ。楽しくラッキーな交流であった(もちろん、彼に反発し続けた党派のリーダーなどもいたのだが)。

私は、こういう認識を、共に運動を歩き続けていた時点で、ハッキリと持っていたわけではまるでない。後の時間で運動をふりかえり、そうだったんだナーと強く思いだしてきたのである。

ただ「遅刻魔」であった福富さんは(これは私はあまり人のことを言えた義理ではないが)、やはりひどくゆっくりと変化する人でもあった。私たちの運動の中で彼も実は大きく変わったのだ。

このことを示す、断片的シーンを、最後にもう一つだけ紹介する。私(と松井隆志)のあるインタビューに答えて、彼は、天皇制の問題や自分の天皇の軍隊の体験について正面から考えだしたのは、「天野くんたちの反天皇制運動を通してだ」とかつて証言している。自分は、軍人だった戦中も天皇信仰なんかなかったし、戦後は、どうでもいいものと考えてきた時間が長かった、軍隊体験なんて、ふりかえりたくもない嫌なものでのみあり続けた、とその時語っていた。運動を生きた後の彼の天皇制認識の結論はどういうものであったのか。それをストレートに示す発言が残されている。「『日の丸・君が代』の強制反対の意思表示の会」の二〇〇〇年十月二八日のリードイン・スピークアウト集会での発言である。この短文を読み、自分の意見を短くコメントするというスタイル(発言者は多数)の集まりで福富さんは、こう「昭和天皇」をこきおろした。

「さて私は嫌いな人がたくさんいます。……しかしなんと言っても最も嫌いなのは昭和天皇です。嫌いと言っただけでは私の気分になってしまいますから、きちんというと、これほど無責任で、そして卑劣な人間は古今いない、その辺にいる卑劣な大臣・議員とか官僚とかはこれに比べるとチンピラです。昭和天皇ほど無責任で、卑劣な者はいない。こういう話を五分で論じよというのは残酷すぎますよね。ですから資料としてはニューヨークタイムスの敗戦、終戦前後の見出し、それから皆さんが見てないでしょうけど、昭和天皇の初めてで最後の記者会見の一問一答の新聞記事(一九七五年一一月一日付)を入れました」。天皇は米国報道で己の身の安全を知っており、それゆえ、ポツダム宣言の受諾へ向かったという事実を示す八月一二日の米国報道。それと自分自身の安全のために敗戦を引き延ばし、広島・長崎の無差別殺傷爆弾攻撃があった事実を忘れたのごとき「原爆やむを得なかった」発言である。この後、彼は天皇の「人間宣言」なるものの「朕と国民との間の紐帯は」のくだり、相互の「信頼と敬愛」で結ばれている、との言葉を引き、「もう絶句したんですから、これでやめます」と話を結んだ。

主催者発言をし、司会者としてその壇上にとどまっていた私は、決して激しく個人を断罪し断定する政治主張をすることなどなかった(そういう「急進的スタイル」を嫌っていた)彼の発言に、本当に驚いたことをよく覚えている。それは、私たちが励まされてきた「戦中派」の渡辺清さんや平井啓之さん(ともに、「わだつみ会」)の、天皇個人への非難を突き抜けて象徴天皇制それ自体の全面否定へいたる心情と論理が、のりうつったかのごときものであったのだ。

〈天皇(制)だけはなにがあっても許してはいけない〉。その時、そのメッセージは、私の胸にストンと落ちた。

「平成の代替わり」の政治過程の時間の中で亡くなった福富さんとのささやかな追悼的回想を通して、反天皇制運動の〈経験〉史は、語られるべきこと、歴史的に整理されるべきことが、まったくほうり出されたままであるという実感を強く持った。この状況でこそ、それは果たされなければなるまい。それは福富さんが私たちに残した課題だ。

福富さん、楽しくそして大切な運動の時間を共有してくださって、本当にありがとうございました。

(天野恵一)

【書評】『「明治日本の産業革命遺産」と強制労働〜日韓市民による世界遺産ガイドブック』

「世界遺産」を冠にする広報やメディアの報道・番組を目にすることが多くなった。
特にテレビ番組では、ほとんどがアイデアも表現も一〇年一日のけたたましいシロモノばかりで、できるだけ遠ざけているのだが、「世界遺産」を紹介するという体のものはそれでも比較的おとなしめなつくりにしていることが多く、ふと流し見していることもある。

国連ユネスコは、その活動に求心力を持たせるために、この「世界遺産」の選定を活用してきた。確かに、ユネスコ憲章にもあるように、「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは人間の尊厳に欠くことのできないもの」として、「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」を共同で保存していく活動というものは意味があるだろう。とりわけ「近代化」が世界大となる中で、経済活動や文化衝突によって多数のものが「遺産」とさせられてきた。なかでも植民地化や資本主義化を爆発的に進めた国家や集団は、そのしばしば犯罪でしかなかった活動によって喪われた何くれに対して、重大な責任を持っており、その保存や意味づけを行なっていくべきだと思う。文化や「文化財」の「保護」は、それを踏みにじってきた歴史から考えるならば、欺瞞そのものだというしかないが、それでも、その固有の価値を確立するための努力や体制は、政治や経済活動その他による蹂躙を少しでも許さないために、怠ってはならないものだ。

しかし、近年になって、日本政府やその外郭団体、利権集団によって推進されている「世界遺産」採択活動は、対象の選択も恣意的きわまり、そのほとんどがおぞましいものでしかない。ちなみに、民間において「世界遺産」申請に圧力をかける中心的存在は、かの日本財団である。記憶に新しいのは記紀を根拠とする宗像三女神を祀った神社や島嶼を「神宿る島」としたものだが、このパンフレットが批判している「明治日本の産業革命遺産」もまた、その典型的なものだと言えるだろう。この件では、前川前文科事務次官によって、文科省の審議会に安倍政権が介入して、木曽、和泉、加藤などその利権グループを「有識者会議」に押し込んだ経過が明らかにされている。制定の過程では「一般財団法人産業遺産国民会議」なるものも立ち上げられた。

「明治日本の産業革命遺産」では、九州と安倍の地元の山口県の施設を主として登録された。産業革命に関連が深いとは言えない「松下村塾」や萩市城下町などもしっかり盛り込まれている。

しかし、この登録における問題は、それだけではない。「明治日本の産業革命」は、それ自体が正の「価値」づけをされるようなものではなかった。資本形成期の資本主義は、本質的に労働収奪的なものとして展開された。明治期の大日本帝国においては、「資本主義」の展開は、まさに侵略政策のただなかでその実体化として進められた。国内的には産業労働者として農民層を解体し、対外的にはそれに加えて植民地化された朝鮮などからの労働者の動員と強制労働がなされた。こうした経過は「世界遺産」としては後景に伏せられ、産業化の「栄光」とそれを推進した企業や個人の顕彰ばかりがなされている。登録時には、「戦時の朝鮮半島出身者の徴用は強制労働ではない」とまで主張している。強制労働や暴力についての指摘には、産経新聞やネット右翼などまで総動員して、これをもみ消そうとしているのだ。

このパンフレットは、90 ページほどに過ぎない小さなものだが、文章だけではなく図版を多数盛り込んで、さまざまな方面からこの問題を浮き彫りにしている。これまで韓国の側から歴史の発掘と資料の収集・出版に取り組んでいた「民族問題研究所」と、日本の側でこうした活動を展開してきた「強制動員真相究明ネットワーク」の共同で制作されたもので、この問題を今後も究明していくという意思を明らかにしているものだ。読みやすく、しかも内容は細かくて、テキストとしても優れている。
ウェブ上でも公開されているが、ぜひとも購入して活動を支援していきたい。

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強制動員真相究明ネットワーク/民族問題研究所
〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

(財)神戸学生青年センター内

http://ksyc.jp/sinsou-net/sekaiisann-g-book.pdf

送料込み五〇〇円
郵便振替〈00930ー9ー297182  真相究明ネット〉

(蝙蝠)

【今月のAlert】天皇「代替わり」・「明治150年」を撃つ反天皇制運動の拡大をめざして

今年に入って、天皇「代替わり」に関する準備が着実に進んでいる。

一月九日の閣議で設置が決まった「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会」(委員長= 菅官房長官)は、その日のうちに初会合を開き、三月中旬をめどに基本方針を取りまとめることを決めた。式典準備委員会では、「平成の即位の儀式を基本的に踏襲すべきだ」という意見のもとで、即位儀式のうち、「剣璽(けんじ)等承継の儀」「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の五つを国事行為とし、「大嘗祭」については国事行為とはしないが、公費支出をするという方針が示された。

「剣璽等承継の儀」は「三種の神器」などの引き継ぎ儀式であり、「即位後朝見の儀」は、即位後初めて天皇として「国民代表」に「おことば」を述べる儀式である。
純然たる皇室神道の儀式である大嘗祭も含めて、憲法の「政教分離」「国民主権」原則に対する重大な侵害であることは疑いない。

さらに政府は、皇太子・徳仁が即位する来年五月一日を「この年限りの祝日とする」方向で検討に入ったという。「昭和の日」にはじまる「一〇連休」があけたときには、「新しい御代」という祝賀ムードの演出ではないのか。五月一日のメーデーも天皇の記念日となってしまうのだ。

政府は、退位の儀式を四月三〇日、即位の儀式を五月一日に分けておこなう方針である。天皇が自らの意思で皇位を譲る「譲位」の色彩を帯び、天皇の国政関与を禁じた憲法に触れることがないようにするため、と説明されている。

これ自体が欺瞞的なものだが、伝統主義的右派は、それでは天皇の「空位」が生じると批判している。神社新報社が設立した「時の流れ研究会」は一月二四日に「御譲位の儀と御即位(践祚)の儀は、同日・同じ場所で引き続き行はれ、『剣璽』が承継されることを望む」「皇位継承の儀式は、憲法にも定められる皇位の重みから、国の重儀(天皇の国事行為、国の儀式)として執行されることを望む」などとする要望書を出した。彼らにとって、「三種の神器」は皇位の象徴であるので、その「引き継ぎ」なき「譲位」などありえないのだ。

こうしたくだらない議論がまじめになされること自体に、天皇制という国家の装置の核として、実は明確に「国家神道」が存在し続けていることが示されている。
それは単なる「神道儀式」であるから政教分離に違反するといった話ではないのだ。
これら「代替わり」儀式を通じて、国家の祭祀としての国家神道が現前するのである。それが日本の「文化と伝統」という言いぐさで肯定されることも、神社非宗教論を掲げた国家神道と同じである。

そして、この「代替わり」儀式の準備と並行して、各省庁の連絡調整機関である「明治一五〇年」関連施策各府省庁連絡会議のもとで、「明治一五〇年」の祝賀事業が進められている(昨年末現在で、国主催のものが一五二件、地方公共団体レベルのものが二〇〇八件)。現時点では、開催も含めて確定してはいないが、メインの儀式として、当然、秋には政府主催の記念式典が想定されているはずである。

明治一五〇年の施策に関する政府の文書は、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ向けて」と称して、「明治期に生きた人びとのよりどころとなった精神を捉えることにより、日本の技術や文化といった強みを再認識し、現代に活かすことで、日本の更なる発展を目指す基礎とする」と述べている。

政府広報で「明治ノベーション〜メイジン」なるキャラクター(?)が登場しているように、それは安倍や財界が求める流行の価値観を日本近代の出発点に投影した、「ニッポンスゴイ」論である。「一五〇年」を、今に続く一連の発展を遂げた近代化の歴史ととらえ、それをもたらした精神文化の称揚とともに、まるごと賛美・肯定しようとするものだ。

しかし、現実の明治= 近代日本の一五〇年とは、すなわち天皇制国家の一五〇年である。前半はアジア侵略・植民地支配と戦争に彩られ、また、後半は象徴天皇制のもとで侵略戦争と植民地支配から目を背けてきた歴史だ。「一五〇年」はそのように無条件に賛美されるような歴史では決してないのだ。

私たちは、この「明治一五〇年」が、明仁天皇「代替わり」の前哨戦として行われるイベントであるととらえ、近代天皇制の歴史総体を批判していくという立場から、今年一年間の反天皇制闘争を開始していきたい。2・11 反「紀元節」行動はその第一歩である。ぜひ多くの参加を。

そしてまた、昨年「終わりにしよう天皇制!11 ・26 集会・デモ」に取り組んだ首都圏の反天皇制運動の枠で、この二月から「元号はいらない署名運動」を呼びかけることになった。次号では、具体的な報告もできると思う。ぜひ、協力して、反天皇制の声を大きくあげていこう。

(北野誉)

【月刊ニュース】反天皇制運動Alert 20号(2018年2月 通巻402号)

今月のAlert ◉天皇「代替わり」・「明治150年」を撃つ反天皇制運動の拡大をめざして(北野誉)
反天ジャーナル◉井上森、つるたまさひで、映女
状況批評◉カラッポのタンスと聖徳の魔法(平井玄)
書評◉「明治日本の産業革命遺産」と強制労働〜日韓市民による世界遺産ガイドブック(蝙蝠)
追悼・福富節男さん◉反天皇制運動の中での交流(天野恵一)
太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈93〉◉ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助の下で実施されたという「発見」(太田昌国)
野次馬日誌
集会の真相◉12 ・23 民主主義と天皇制:代替わりにあたり改めて問う(愛知)/1・14 「昭和」Xデー闘争の「経験」を通して、「平成」代替わりを考える/1・24 警視庁機動隊の沖縄への派遣は違法住民訴訟第五回口頭弁論/1・27 「沖縄報道を問う」シンポジウム
学習会報告◉ケネス・ルオフ『紀元二千六百年:消費と観光のナショナリズム』(木村剛久訳、朝日選書、二〇一〇年)
反天日誌
集会情報

→前号の目次はこちら

*2018年2月6日発行/B5判16ページ/一部250円
*模索舎(東京・新宿)でも購入できます。

http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/