〈「老衰」のため〉という福富節男さんの死去の連絡は、「日本はこれでいいのか市民連合」から、私たち「反天皇制運動連絡会」に移ってきて熱心に活動し続けたという、めずらしい経歴の事務局メンバーであった八坂康司から来た。「一二月一八日」に亡くなられたと、福富さんと、運動上の付き合いの長かった八坂はつたえてくれた。九八歳の誕生日をこえた後の死であった。
八坂の電話の後、福富さんとともに動きまわった日々の断片的シーンが、いくつもいくつも私の頭の中に浮かんできた。本当にすさまじい数の会議をデモを、大小さまざまな集会をともにつくってきたのだ。
最後のデモのシーンは、良く覚えている。糖尿病の悪化で、ほとんど歩くことができなくなっていた私は、デモの宣伝カーに乗り込んでいた。デモの出発地点、いつもの通り右翼の暴力的介入で大混乱、殴りかかりつつ「非国民死ネ!」などという罵声をあげる暴力の渦の中を、福富さんがゆっくりと歩いて来たのである。車の窓の外から、私に何か手渡そうとする。私は危険を感じて、いそいで窓をおろして対応すると、「勉(べん)さんの食事管理のためのノートと血糖測定機だ。「気をつけて生きてくれ」と短くつたえて、福富さんはスタスタと歩き去っていった。そのノートは家に帰ってどういうものか理解できたのだが、糖尿病の大先輩である、渡辺勉さんの日々の三食のメニューをこまかく書き込んだものであった。福富さんが、わざわざ彼の長い友人の勉さんのところから持参してくれたのである。私は、九十歳を超えていたであろう福富さんが、こんな危険な場所から、無事にひきあげられるだろうかと、ハラハラしながら、その背中を見送ったことを、昨日のことのように覚えている。おそらくそれは、「デデモクラシーモ暮らし」の人生を自認していた福富さんの最後のデモ参加だったのではないかと、いま思う。
もう一つの思い出のシーンは、一九八八年の四月二九日・三十日に、のべ二千人をこえる参加者で持たれた昭和天皇の「代替りの政治」プロセスでの、都内大結集の第一派の準備の時間だったと思う。私たちは、いくつもの分科会をつくり、ここで広く反天皇制の声を結集させなければ、次のステップはないという思いで必死の努力、自分たちの力量をまったく超えたことの実現のための努力をかさねていた。「共同行動」の事務局の会議(作業)はほぼ連日深夜まで続いていた。その渦中のある日の事である。場所はハッキリしないが、深夜に福富さんと私は奇妙に大きな電話ボックス(どこか人のいない高速道路の中にでもあるようなそれ)の前にいる、そして福富さんが海外電話のためのそのBOXに入り、電話をし出てくる。そして「残念、ダメだった。ドイツからは帰国しているんだが、その翌日のスケジュール、無理はお願いできなかった」と、本当に残念そうに告げる。「しかたないですね」と答えながら、私は、その時この局面で、すさまじい数の講師への発言依頼を引き受けて、人には言えないが(本当はこういう気配りをはりめぐらすような作業は苦手な私が)ヘトヘトになっていたのを見かねて、加藤周一さんへの依頼を(福富さんの提案だったということもあったか)自ら、引き受け、深夜までつきあってくれた時のことである。数学者であった福富さんは、運動を引っぱっていくような方針を出し、主役で活動するタイプではまったくなかった。しかし、運動が力になるように、どう人々に広くつたわる主張(スタイル)をつくりだすかという点については、常に誰よりも運動の中で考えていた人だったと、いま思う。三十歳近く年齢が上の福富さんは、このように長い間いつも運動「現場」の苦労を、ともにしている特別な〈友人〉でありつづけた。
集まりを広げるべく、私たちではとても思いつかない(ただし交渉しだいでは出てきてもおかしくない)加藤周一さんの名をあげ、直接交渉までしてくれた彼と私は、深夜の車道を、「代わりは誰がいいかな?」などと話しながらトボトボと歩き続けた。この深夜のトボトボ歩きは、結果的には、思いもかけぬ大結集をうみだしたこの〈反天フォーラム〉の時の忘れられない思い出の一コマである。
私たちの反天皇制の「共同行動」のリーダー層は、セクトであれノンセクト(あるいは党派をやめた人)であれ、ほぼ大学で全共闘運動の体験者であった(もちろん、それ以外の人も少なくなかったが)。共通していたのはひたすらソフトな「市民(主義)運動」への、強い反発であったと思う(これも、またそうでない人もいたが)。だから、あのような大衆的な広がりをつくりだす力量はなかったと思う。猪突猛進の〈心情的急進主義者〉の群れだったのだから。福富さんは、その群れの内側から、私たちの偏狭さを、とりはらうべく、したたかに動き続けた。私個人でいえば、彼が「ベ平連」などの活動を通して知っていた、実に多様でユニークな人々と交流する機会を、数かぎりなく作ってくれた。人と人の出会いは、自然に人を変える(自己相対化の契機になる〈出会い〉というものは、まちがいなくある)。福富さんと歩いた運動プロセスは、そういうことだったのだ(それが徹底的に少数派を約束された反天皇制運動を思いもかけず大衆的に拡大する主体的契機となったのだ)。福富さんは単なる「市民運動」者ではなかった。東京農工大の教師をしながら、自分が処分された日本大学の全共闘運動に加担する活動(日大闘争救援会)の経験もあり、「全共闘」の急進主義をハラハラした気分で見まもるというポジションは馴れていたのだろう。私たち硬直した運動のスタイルをもみほぐし続けてくれたのだ。楽しくラッキーな交流であった(もちろん、彼に反発し続けた党派のリーダーなどもいたのだが)。
私は、こういう認識を、共に運動を歩き続けていた時点で、ハッキリと持っていたわけではまるでない。後の時間で運動をふりかえり、そうだったんだナーと強く思いだしてきたのである。
ただ「遅刻魔」であった福富さんは(これは私はあまり人のことを言えた義理ではないが)、やはりひどくゆっくりと変化する人でもあった。私たちの運動の中で彼も実は大きく変わったのだ。
このことを示す、断片的シーンを、最後にもう一つだけ紹介する。私(と松井隆志)のあるインタビューに答えて、彼は、天皇制の問題や自分の天皇の軍隊の体験について正面から考えだしたのは、「天野くんたちの反天皇制運動を通してだ」とかつて証言している。自分は、軍人だった戦中も天皇信仰なんかなかったし、戦後は、どうでもいいものと考えてきた時間が長かった、軍隊体験なんて、ふりかえりたくもない嫌なものでのみあり続けた、とその時語っていた。運動を生きた後の彼の天皇制認識の結論はどういうものであったのか。それをストレートに示す発言が残されている。「『日の丸・君が代』の強制反対の意思表示の会」の二〇〇〇年十月二八日のリードイン・スピークアウト集会での発言である。この短文を読み、自分の意見を短くコメントするというスタイル(発言者は多数)の集まりで福富さんは、こう「昭和天皇」をこきおろした。
「さて私は嫌いな人がたくさんいます。……しかしなんと言っても最も嫌いなのは昭和天皇です。嫌いと言っただけでは私の気分になってしまいますから、きちんというと、これほど無責任で、そして卑劣な人間は古今いない、その辺にいる卑劣な大臣・議員とか官僚とかはこれに比べるとチンピラです。昭和天皇ほど無責任で、卑劣な者はいない。こういう話を五分で論じよというのは残酷すぎますよね。ですから資料としてはニューヨークタイムスの敗戦、終戦前後の見出し、それから皆さんが見てないでしょうけど、昭和天皇の初めてで最後の記者会見の一問一答の新聞記事(一九七五年一一月一日付)を入れました」。天皇は米国報道で己の身の安全を知っており、それゆえ、ポツダム宣言の受諾へ向かったという事実を示す八月一二日の米国報道。それと自分自身の安全のために敗戦を引き延ばし、広島・長崎の無差別殺傷爆弾攻撃があった事実を忘れたのごとき「原爆やむを得なかった」発言である。この後、彼は天皇の「人間宣言」なるものの「朕と国民との間の紐帯は」のくだり、相互の「信頼と敬愛」で結ばれている、との言葉を引き、「もう絶句したんですから、これでやめます」と話を結んだ。
主催者発言をし、司会者としてその壇上にとどまっていた私は、決して激しく個人を断罪し断定する政治主張をすることなどなかった(そういう「急進的スタイル」を嫌っていた)彼の発言に、本当に驚いたことをよく覚えている。それは、私たちが励まされてきた「戦中派」の渡辺清さんや平井啓之さん(ともに、「わだつみ会」)の、天皇個人への非難を突き抜けて象徴天皇制それ自体の全面否定へいたる心情と論理が、のりうつったかのごときものであったのだ。
〈天皇(制)だけはなにがあっても許してはいけない〉。その時、そのメッセージは、私の胸にストンと落ちた。
「平成の代替わり」の政治過程の時間の中で亡くなった福富さんとのささやかな追悼的回想を通して、反天皇制運動の〈経験〉史は、語られるべきこと、歴史的に整理されるべきことが、まったくほうり出されたままであるという実感を強く持った。この状況でこそ、それは果たされなければなるまい。それは福富さんが私たちに残した課題だ。
福富さん、楽しくそして大切な運動の時間を共有してくださって、本当にありがとうございました。
(天野恵一)