【集会案内】なぜ元号はいらないのか? 7・21集会

日時:7月21日(土)午後1時15分開場/1時半開始

会場:文京区民センター2A(地下鉄「後楽園」駅・「春日」駅、下車すぐ)

 

講演:坂元ひろ子さん(中国思想史・一橋大名誉教授)

「中国の革命経験から考えるアジアの共和国」

報告:中川信明(靖国・天皇制問題情報センター)

「元号不使用運動の実践と成果」

ほか、自治体議員など予定

 

主催:元号はいらない署名運動

【呼びかけ団体】 ■反天皇制運動連絡会■「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会■天皇制いらないデモ実行委員会■靖国・天皇制問題情報センター

 

(よびかけ文)

来年5月1日の天皇代替わりとともに、「平成」は終わります。

これに合わせて元号制度を終わりにしようと、全国の仲間の皆さんとともに「新元号制定に反対する署名」を集めてきました。

「不便・不合理な元号」というのはもちろんですが、さらにもう一歩「なぜ元号はいらないのか?」という議論を深めていきたい。そんな思いを込めて、7月21日に集会を開催します。

講演は、中国思想史がご専門の坂元ひろ子さんにお願いしました。元号を生み、そして廃した中国の歴史から考えることは多いと思います。

元号反対運動の歴史的な観点からの報告も予定しています。

ふるってご参加ください♪

【呼びかけ】「明治150年」天皇制と近代植民地主義を考える 8・ 15 反「靖国」行動への参加・賛同の呼びかけ

二〇一九年四月三〇日明仁天皇「退位」・五月一日新天皇「即位」まですでに一年を切った。

四月初め、政府の式典準備委員会は「代替わり」儀式の基本方針を固め、明仁への「代替わり」のそれを今回も踏襲するとした。「即位の大礼」など五つの儀式を「国事行為」とし、「大嘗祭」は「国事行為」とはしないが、その「公的性格」に鑑みて、特別に公費を支出するという。政府や一部マスコミは、それが「政教分離」への配慮などというが、そもそも新天皇の即位儀礼とは、三〇にも及ぶさまざまな儀式の総体であって、その一部だけを切り離すなどということ自体無意味だ。私たちはまず、一連の「代替わり」儀式が、憲法上の「政教分離原則」と「国民主権」の原理を公然と踏みにじる、違憲の行為であるということを指摘しなければならない。そして、一連の天皇「代替わり」儀式は、日本が、天皇という世襲の君主を戴く国家であり、「国民」もまた天皇に象徴されることによって「国民」なのだということを再確認させる、最大の天皇制攻撃にほかならない。

そもそも、八〇歳を超える高齢となり、「天皇のつとめ」を充分全うすることができなくなったということを理由に、「生前退位」のメッセージを発し、退位特例法なる新たな立法すら実現させていったのが、この間の「天皇退位」の動きであった。にも関わらず天皇は、退位するその日まで、天皇としての「公務」や、皇室祭祀などを精力的に続けていく意思を示している。宮内庁がこの一年の間に、天皇としての「公的な活動」を、皇太子や秋篠宮に引き継ぐことを提案したが、天皇はそれに同意しなかったというのだ。

今年の三月二七日、明仁・美智子は沖縄・与那国を訪問した。この沖縄訪問を、マスメディアは相変わらず「慰霊の旅」などと描き出している。しかし、この地域は、対中国シフトをイメージした軍事的な拠点としてクローズアップされている。すでに二年前の三月二八日に、この与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置され、そして天皇が沖縄に着いたまさにその日に、陸上自衛隊は全国の五方面隊を一元的に指揮する司令部として「陸上総隊」を発足させ、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)をおいている。与那国では、町内のあちこちに、自衛隊協力会によって、「奉迎」の横断幕が掲げられ、天皇が乗った車は、自衛隊与那国駐屯地の隊員によって、と列で迎えられた。また那覇の国際通りでも、自衛隊の陸・空特別編成音楽隊を先頭に、「日の丸」と提灯を掲げた四五〇〇人の奉迎パレードが行われている。「平和主義」イメージとは裏腹に、天皇と軍隊との軍隊との結びつきは、より露骨に現れていたのだ。

明仁はまた、六月九日には、全国植樹祭への出席に伴って福島県を訪問し、さらに八月五日には、アイヌモシリが「北海道」と命名されてから一五〇年を記念する式典が行われるのに合わせて札幌を訪問し、その前後に離島・利尻島を訪ねる計画となっている。

明仁は昨年八月のビデオメッセージで、「とりわけ遠隔の地や島々への旅も、天皇の象徴的行為として、大切なもの」と述べていた。天皇としての「最後」の訪問地としてこれらの地域が選ばれていることは象徴的である。沖縄と北海道は、近代天皇制国家の出発にあたって、「日本の版図」に編入された地域であり、その一五〇年間の歴史には、日本帝国による国内植民地支配の経験が刻み込まれている。その地域と住民(先住民)を、あらためて日本の「国土」・「国民」として再統合していく「象徴的」な行為として、天皇の訪問はあるのだ。そして侵略戦争と植民地支配の歴史を後景化させる方向での歴史の「清算」は、日本の近代全体を、文明化と経済発展の軌跡としてひたすら明るく描き出そうとする、政府の「明治一五〇年」賛美の動きと連動するものだ。

さらに、明仁天皇がこだわってきたとされるのが「戦没者慰霊」である。今年の八月一五日の全国戦没者追悼式は、明仁にとっては、天皇として最後の式典出席となる。全国戦没者追悼式は、戦争の死者を、戦後日本の発展をもたらした「尊い犠牲者」と賛美することによって、その死を美化し顕彰する儀式にほかならない。その意味において、軍人・軍属(戦闘協力者)の死者を「英霊」として祀る靖国神社と同質のものだ。

8・15反「靖国」行動は、国家による「慰霊・追悼」を撃ち、天皇制の植民地支配、戦争・戦後責任を批判し抜く行動として取り組まれてきた。日本が、戦争法や治安法を整備し、海外における米軍への協力活動など、実際の軍事行動に踏み込んでいる現在、国家にとって「新たな戦争の死者」をどう位置づけ、利用していくかという課題は、ますます現実的なものとなっている。国家による「慰霊・追悼」それ自体が、戦争準備の一環をなしているのだ。そして「代替わり」に伴って新たに登場する新天皇が、そこでどのような役割を果し、また果すことが期待されているのかを問うていかなければならない。

8・15反「靖国」行動をステップに、「明治一五〇年」から「代替わり」諸儀式に具体的に反対していく運動を強化し、向こう側からの「平成の総括」を批判しぬき、天皇「代替わり」を契機として創り出される天皇制社会の時間と空間に抗していく、私たちの自由を取り戻す闘いを準備しよう。8・15反「靖国」行動実行委員会への多くの参加・賛同、協力を!

「明治150年」天皇制と近代植民地を考える8・15反「靖国」行動

[呼びかけ団体]

アジア連帯講座/研究所テオリア/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」の強制反対の意思表示の会/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動者評議会

【追悼文】追悼・新崎盛暉さん

天皇の「生前退位」希望のメッセージに突き動かされるかたちで開始された天皇「代替り」の政治プロセス。今年(二〇一八年)も、私たちは四月二八〜二九日の連続行動の実行委員会をつくりだした。まず三月二七日から二九日にかけての天皇・皇后の「最後の」沖縄訪問に抗議する運動からスタートしていた。その渦中に、新崎盛暉さん死去の悲報は届いた。

『琉球新報』(四月一日)はこう報じている。

「沖縄戦後史や沖縄民衆運動研究の第一人者で、市民運動をけん引してきた沖縄大学学長で同大学名誉教授の新崎盛暉(あらさきもりてる)さんが三一日午後五時五八分、肺炎のため南風原町病院で死去した。八二歳。東京都出身」。

研究の「第一人者」であることはまちがいないが、彼の研究スタイルは、いわゆる研究者のそれとはまったく違っていた。常に反基地や反安保運動の中に身を置き、運動を方向づける実践的意思をもって状況を緻密に分析する。歴史的過去に向き合っている文章でも、その基本的姿勢は崩さない。ようするに運動の中から、運動に向かって、さらにその外部に向かって発信する。その作業の累積が、そのまま「研究」なのである。いいかえれば運動の「同時代史」の記述が、そのまま「運動史研究」なのである。彼は、最後までその姿勢で完走した。こんな人間を、もう一人さがせといっても、ほぼ不可能であろう。

学生時代は「反復帰」論に理論的共感を持って沖縄について考えることからスタートした私が、復帰運動の代表的イデオローグであった彼に強いシンパシーを抱くようになったのは、八〇年代末からの運動の中での交流を媒介に、その点に気付かされたことが決定的であった。この交流の中で、私たちの運動のパンフレットなどに収めるための彼のインタビューや論文の原稿依頼に、また講演依頼に、「学長」である彼は気楽に応じ続けてくれた。

私と対談で小さな本をつくったこともある。『本当に戦争がしたいの!? 新ガイドラインの向こうに見えるもの』(凱風社・一九九九年)がそれである。そのとき聞けた話で、忘れられない、というより忘れてはいけない話(エピソード)が二つある。

「両親は沖縄出身だけれど僕は東京で生まれた」と語る彼は、一九五二年の〈四・二八〉体験について、こう語っている。

「……校長が全校教職員を集めて、今日で日本は独立しましたということで、万歳三唱をしたんです。それが僕と沖縄の出会いだった。僕は沖縄出身だと思っていても紛れもない日本人でもあった。しかし沖縄が日本から切り離されて米国の支配下に置き続けられるというのに、ここで万歳しているやつがいるわけね。校長が音頭とって、九九%くらいがこれに唱和するわけ」。

〈沖縄人という異質性を自覚した日本人〉これが新崎のアイデンティティであり続けた。すべての仕事が、この軸を中心につくりだされているはずだ。

もう一つは、沖縄の女学生「ひめゆり部隊」の悲劇を知ることを通して「非戦闘員の戦争」という視点をふまえることで、自己の「右翼」的心情と論理が「根底から突き崩され」、〈絶対平和主義〉への思想的通路がついた、という話である。

より具体的なエピソードとしては、一九五六年ごろ全学連のデモの中で、何故沖縄は武装蜂起しないのだろうとの話が出たとき、沖縄戦があった沖縄で武装蜂起などあるわけないと、自分は思ったという回想だ。

この二本の思想軸がうみだした大量の「同時代史」=運動史の再読を媒介に、自分たちの運動史を検証してみる作業、これが私たちに残された課題である。私と彼の個人的な対話のスタートは、広島の松江澄さんからの依頼で、一九八七年の〈八・六〉集会の発言者として、彼に声をかけるという任務から始まった。東京からの依頼の電話に、彼は、あの不機嫌そうな声(こういうブッキラボーな対応は、その後も不変であった)で、快諾してくれた。その時、予定されていた天皇ヒロヒトの訪沖がもたらす、沖縄(死者共同体)社会での政治力に危惧の念を語った私に、彼は皮肉っぽく「沖縄では、天皇といえばあの沖縄売り渡しのメッセージしかイメージされないよ」と答えた。アキヒト天皇歓迎一色に見える沖縄。その中に、もう一度この新崎の言葉を置いてみたい。ひたすら無愛想、そのくせ出会った時の突然フレンドリーな笑顔。そういう人であった。

(天野恵一)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

【集会報告】3・ 24 集会報告 天皇の沖縄・与那国訪問を問う

三月二四日午後六時から見出しの集会が、東京・駒込地域文化創造館で約五〇名の結集で開催した。集会は冒頭、司会者が次のように挨拶した。

《天皇アキヒトが沖縄訪問する三月二七日は、『明治』天皇制太政官政府の命を受けた松田道之処分官が、警官一六〇名、熊本鎮台分遣隊約四〇〇名を従えて首里城に押し入り廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じた日である。与那国に行く三月二八日は二年前、陸上自衛隊・沿岸監視部隊の駐屯地が与那国に開設された日である。アキヒトの沖縄・与那国訪問は、日米両政府による辺野古新基地建設をはじめ琉球弧の軍事植民地化のための宣撫工作である。》

お話は、大仲尊さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)が、「自衛隊配備と天皇の与那国訪問」と題して報告した。

《私は一九四九年、与那国生まれで一五歳の時に那覇に行き、その後ヤマトに住んでいる。沖縄戦では与那国は空襲がなく、日本軍の食糧調達のためマラリア地帯であった西表や石垣に住民を強制疎開させた結果、マラリア被害で多くの人が亡くなった。被害の問題はまだ決着がついていない。

報道によれば天皇は、与那国で最初に東牧場の「与那国馬」を見る。その後複合型施設で「ヨナグニサン」(沖縄県天然記念物・世界最大級の蛾)を見る。そこは、自衛隊駐屯地から徒歩で行ける距離にある。駐屯地に行くかはわからないが自衛隊幹部と会うだろう。そして久部良小学校で郷土芸能・棒踊りを見て、漁業協同組合に行く。漁協は、保守の地盤である。その後、日本最西端の碑を訪れるらしい。

戦中有名な与那国出身の二人がいる。一人は伊波南哲、一九四三年作の与那国の詩で与那国島を「南海の防波堤與那國島」「沈まざる二十五万噸の航空母艦」と称して今も祖納にある「讃・与那國島の碑」がある。あと一人は戦死し、「軍神」とあがめられた大枡松市、大枡に続けといわれていた。その弟が元沖縄県警刑事部長であった。自衛隊配備でこのことが過去の話ではないと思える。

自衛隊が入ってきて二年。誘致派は自衛隊と家族三五〇人によって経済が活性化すると言っていたが、現実はそうなっていない。自衛隊員が迷彩服のまま空港や居酒屋に来るようになった。「菊の御紋」があることによって、天皇の権威が生まれ、村八分があるように、自衛隊がきたことによる島の分断が天皇訪問後一層深まるだろうと心配している。》

続いて天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)が、「アキヒト天皇と沖縄」と題して報告した。

《自分達が、天皇と沖縄の問題を意識するようになったのは、天皇ヒロヒトが沖縄・海邦国体(一九八七年)出席のため沖縄を訪問しようとしたことに対して反対運動を準備する過程であった。ヒロヒトは、なぜ沖縄に行かなければならないと思っていたのか。それは「国体護持」のための沖縄戦で「集団自決」を強要し、安保条約の下で売り渡した沖縄を日本国家に統合するのは自分の務めだと思ったのだ。しかし沖縄訪問は果たせなかった。

私は知花昌一さんの救援会(日の丸焼き捨て裁判)にかかわり、その過程で「ひめゆりの塔」火炎瓶闘争の知念功さんの『ひめゆりの怨念火(いにんび)』(インパクト出版会)の出版を手伝ったりした。その中でなぜ裕仁が沖縄に行けなかったのかわかった気がした。

当時、屋良県政はアキヒト皇太子の来沖を受け入れたが、組合レベルでは、「戦犯天皇の上陸を許すな」の闘争があった。火炎瓶闘争だけがとりざたされているが、それは大衆的な抗議行動の象徴的なものであったことを学んだ。ヒロヒトからアキヒトにかわっても変わることなく天皇制の問題として捉え、糾弾する視点があった。アキヒトは今回で一一回目の沖縄訪問であるが、国家・天皇制が強いた犠牲を「慰霊・追悼」することをもってその責任をあいまいにする政治である。》

フロアーから北村小夜さんが、当初から知花さんの支援を行っていたが、「日の丸」の問題だけでなく、「障害児」のことでも議論したことを話された。ピリカ全国実の仲間から「アイヌ民族抹殺の司令官だった天皇の『北海道150年』式典(八月五日)出席に反対しよう」と訴えがあった。

次に、清水早子さん(止めよう!「自衛隊配備」宮古郡民の会)からの連帯メッセージが読み上げられた。│沖縄の元海兵隊員による│性暴力殺害から2年 基地軍隊はいらない4・29集会実行委、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックから連帯アピールを受け、最後に「天皇の沖縄・与那国訪問を許さない!集会宣言」を採択し、4・28「明治150:日本による沖縄差別を問う 近代天皇制国家形成から日米安保体制のもとで」、29日デモへの結集を訴え集会を終えた。

(野村洋子)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

 

【集会報告】3.24-4.28-4.29連続行動

私たち「天皇『代替わり』と安保・沖縄を考える4・28-29行動」は、実行委の名称にあるとおり、今年も4・28(「沖縄デー」)と4・29(「昭和の日」)を、連続して行動する日として位置づけ、28日の講演集会と29日のデモに取り組んだ。

今年は、三月二七日から二九日にかけておこなわれた明仁・美智子の沖縄・与那国訪問に反対する集会を準備することから、実行委の活動をスタートさせた。天皇が沖縄を訪れたのは、いわゆる「琉球処分」によって近代天皇制国家が沖縄を日本の版図に編入した、まさにその同じ日である。同時に二年前の三月二八日は、与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置され、この地が、文字通り「離島防衛」の最前線に置かれた日なのである。今年、天皇が沖縄に入ったまさにその日に、陸上自衛隊の「陸上総隊」が発足し、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)も置かれた。そういう時期に、そういう場所を天皇が訪れる。「平和天皇」イメージとは裏腹に、天皇制と軍隊の露骨な結びつきが、そこにあったのだ。

私たちは、天皇の沖縄・与那国訪問を前にした三月二四日に、駒込地域文化創造館において、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの大仲尊さんと、実行委の天野恵一を発題者として「天皇の沖縄・与那国訪問を問う」討論集会を持った。

そして四月二八日には、那覇市出身の近代法制史研究者である湖南通さんの講演集会を持った。

今年の2・11反「紀元節」行動においても課題として打ち出した「明治一五〇年」を批判的に問い直すという課題を、近代天皇制国家による沖縄支配の現実をとらえ返す中で考えたいという問題意識があった。文京区民センターで行われた集会には約一〇〇名が参加。講演の後には、一坪反戦関東ブロック、基地・軍隊はいらない4・29集会、安倍靖国参拝違憲訴訟、警視庁機動隊の沖縄派遣に対する住民訴訟、優生保護法や元号など、さまざまな課題と取り組む団体からアピールを受けた。

翌二九日には、神田駅近くの常盤公園に集合し、反「昭和の日」銀座デモをおこなった。デモ出発前には、実行委から二八日の集会報告、元号はいらない署名運動、辺野古への基地建設を許さない実行委員会からのアピールが行われ、またデモの解散地点では、多摩地域メーデー、明治公園オリンピック追い出し国賠訴訟、労働運動活動者評議会のアピールを受けた。

一〇〇人ほどのデモは、随所で街宣右翼の宣伝カーの妨害に遭い、数寄屋橋周辺には在特会系の「カウンター」などもあり、また解散後には右翼の待ち伏せなどもあったが、直接物理的に接触するような場面はほとんどなかった。それに比べ、右翼を理由にした警察・機動隊の介入は相変わらずひどく、実行委としては、警察に対する「苦情申し立て」など、原則的な抗議を重ねるべく準備しているところだ。

すでに、8・15に向けた活動も準備しており、また、首都圏の反天皇制運動の枠で取り組んでいる「元号はいらない署名運動」でも、七月二一日に集会を準備している。8・15以後も、秋から来年にかけて、本格化する天皇「代替わり」攻撃に抗するさまざまな取り組みを、連続的に打っていくことになるはずだ。引き続き、多くの方々の注目と参加をお願いします。

(北野誉)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

【学習会報告】 君塚直隆『立憲君主制の現在─日本人は『象徴天皇』を維持できるか』 (新潮選書、二〇一八年)

著者は関東学院大学でイギリスの政治外交史を講じており、イギリス王室が専門で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」では昨年三月の第十回でヒアリング。イギリスや欧州各国の君主制の事例をもとに、天皇退位後の地位や活動、呼称などについて陳述している。ちなみに、明仁には退位後も「国際親善」の役割を担ってほしい、というのが君塚の「提言」だった。

この本は冒頭で「第一次大戦後にドイツ皇帝の体制を崩壊させたからヒトラーがのさばる心理的門戸をひらいた」とした当時のベヴィン英外相の発言をひく。歴史を読み解けば、戦後の「民主化」にもさまざまな可能性がありえた。それにもかかわらず、天皇制の戦争責任も侵略責任もあらかじめなし崩しに、天皇制の存置を、「連合国」首脳の言に基づき所与の前提とするのが著者の立場だ。

すくなくとも、「君主制」とされる国家体制を政治史から論じるなら、各国憲法の内実、王の権限の制約、民主制と君主制の相互の影響や侵犯の具体的な形相をこそ語るべきで、そのためには、憲法をめぐる学説や比較史にも相応の論点の提示があっていいはずだ。この本も、イギリスの「立憲君主制」についてはそこそこに叙述の分量を割いてはいるのだが、それについても通史的な解説のみであり、端的に言えば「現在ある君主制」をそのまま擁護するために、歴史からエピソードを拾い集めてきたにすぎないと言いたくなる。

この本の中では、英国以外では、北欧三国の王室の「君主制」、ベネルクス三国の王室の「君主制」については、それぞれを比較可能な「体裁」で扱ってはおり、この部分はそれなりに便利だ。しかし、その基調として流れるのは、欧州の「先進国」だって「君主制」だからそれでいいのだ、という傲慢なメッセージであり、民主制のありかたには踏み込もうともしない。第一次大戦、第二次大戦を経て、いくつもの国家は君主制を否定し民主制を選択した。その多くは専制君主制の独裁に対する批判により、悲惨な歴史を生みだして崩壊するべくして崩壊した。著者は、そうした選択や歴史をこの本の中でいっさい捨象している。大日本帝国=明治の天皇制についても同様だ。

「日本人は『象徴天皇』を維持できるか」、もちろん結論はあらかじめ「維持せよ」と設定されている。裕仁の「昭和」と明仁の「平成流」は「国民生活に安定」をもたらした、皇位継承問題は残るが、より「開かれた皇室」をめざそう。天皇の高い「道徳的規範」と、臣民の「寛容さと賢慮」で「国民の理解を得られることを切に願っています」というのが、この本の結びである。

ところで、ぶっちゃけ、いまこの日本国家は民主制なのか? 腐敗・頽廃した国家について政治体制の教科書的形態を論じるのは虚しい。実質的な面でいうなら、縁故主義やハラスメント支配が官僚体制にまで蔓延したフツーの独裁国家だろ?……と胸に問いながら、次回は、天皇論を「ご真影」などメディアに現われた姿から論じている、鶴見良行の「日本の写真」(鶴見良行著作集1所収)です。入手困難な方はご相談を。

(蝙蝠)

【集会報告】女性と天皇制研究会・学習会「眞子〝結婚〟延期と憲法24条─なぜスキャンダルになるのか」 

天皇代替わりのさまざまな動きが本格化していくなか、秋篠宮の長女眞子の結婚が事実上ストップした。このことは単なる週刊誌スキャンダルではすまない何かが潜んでいるの? 私たちの生活や社会との関わりと関係ないの? そういったことをきっかけに女天研目線でのXデー状況を読み解く勉強会をしようということになり、まずは五月一七日に学習会を開いた。

はじめに斎藤塩子が「家父長制が観念から義務規定に? 24条改悪」とした問題提起で口火を切った。自民党による改憲論議のなかで、制定当時の社会状況では一定の効果があったと認めたうえで、現在の結婚制度への考え方、ジェンダーへの考え方の変化や多様性に、現行の憲法二四条〈家族生活における個人の尊厳と両性の平等〉では限界があるのではないかと指摘した。

そして、「眞子婚約問題からみる天皇制」として桜井大子が、天皇家での結婚や出産といった私的に思えることも実は公的な問題である。そして彼らの生活はその〝品格〟というものをお金によって保っているので、それらがことさら報道されるのである。私たちにとって結婚・出産はその行為は私的なものだが、制度は社会的公的問題だ、スキャンダルはイデオロギーなのだ、と語った。

その後、参加者も混じって討論会。婚姻、家制度、戸籍制度などの問題は天皇制の問題と密接に関連がある。二四条からの批判ができればいいが、それにはまだ二四条改憲反対の側においても議論不足を感じる。私たちは、関係「ない」ではすまない制度のなかで生きている。現実の社会のさまざまな差別問題とともに考えていきたい、と締めくくった。

斎藤のレジュメの最後に「必要なのは〝家〟への〝参画〟よりも〝家〟からの〝撤退〟」という佐藤文明さんの言葉が引かれていた。この言葉をずっと反芻している。「家」「家族」という枠にとらわれない、個人としての生き方が尊重される世の中になってほしい。次回は七月一二日。

(中村ななこ)

【紹介】『私たちの街の朝鮮学校のこと知っていますか?─福岡朝鮮初級学校校長 趙星来氏のお話』

このパンフレットは、排外主義NO!福岡の学習会、「福岡朝鮮初級学校校長・趙星来さんのお話を聞く」を、講演記録としてまとめたものだ。「お話」の内容は話し手・趙さんの個人史であり、同時に朝鮮学校の歴史と現在である。語り口調の記録は、読む者をジワジワと引き込んでいく。

講演は自己紹介、家族と自分自身の話から始まる。たとえば、お父さん。一九四四年に日本に渡った在日一世で、趙さんと同じ朝鮮学校の教員と校長を務め、すでに他界されている。小中高と日本の学校に通い、朝鮮語はあまり話さないというお母さんは、そのお父さん(趙さんのお祖父さん)が強制連行で炭鉱に連れてこられ、福岡で生まれ育った二世。星来さんが生まれ、朝鮮学校教員のお父さんと家族を支えるために焼き肉屋を経営されていたという。そしていま朝鮮大学で教鞭をとる弟。あるいは総連の活動家の叔父さんや、帰国したもう一人の叔父さんのこと……。

家族の紹介部分だけで、聞き手・読者はまず、趙さんの家族一人ひとりの人生が、在日朝鮮人の歴史の具体的な一つであること知る。趙さんの個人史を語る穏やかな口調は、その趙さんの家族と「日本人」の家族のありようの違いが、日本の植民地主義、侵略戦争の歴史に起因していることを知らせ、そしてそれすらを忘れ去ろうとしているこの日本社会の住人たちを、その記憶へと引き戻す。なるほど、一人の朝鮮初級学校校長の個人史は福岡の朝鮮学校の歴史として、あるいは日本の戦争責任の問題として読み解いていくこととなるのだ。

もちろん、「朝鮮学校のあゆみ」として、福岡に限らない、敗戦後全国で展開された朝鮮学校の設立と閉鎖、そしてまた設立と閉鎖、といった歴史についても語られる。そして、なぜそうやって朝鮮学校を守っていくのかを。

趙さんは語る。敗戦直後の4・26教育闘争について、朝鮮学校創立への闘いや日本の差別政策と学校法人認可取得運動について、朝鮮学校の教育内容について。そして、財政問題。とりわけ保護者、卒業生や同胞、団体からの寄付、行事や施設貸出等による収入を主な財源とする運営は、最終的に保護者負担を大きくしていることを訴えられる。福岡県からのわずかな補助金(一校あたり三十数万?)もこの先どうなることかわからないという。すべてが、日本政府が朝鮮学校を各種学校という位置づけ以上にしない差別政策の結果である。この差別政策は補助金廃止だけの問題ではすまない。朝鮮学校を卒業しても、小中学校を卒業したとは認められないという現実がある。趙さんは「朝鮮学校をきちんと認めてください」と訴える。教育内容を詳細に語られるのも、この「認められていない」現実を超えるための正攻法の一つなのだと思いながら読んだ。すごくまっとうな授業がなされていることを、多くの日本人は知らなさすぎるのだ。私もその一人だった。

また、「今も朝鮮学校が受けている差別」として、法的地位の低さや朝鮮渡航の困難さを例に出し、「一言で言えば朝鮮学校に戦後はまだ訪れていないといえます。戦中戦前のような扱いなのかもしれません」と結ばれる。過去に眼を閉じるというより、過去の価値観(偏見)そのままとしか言いようのない日本社会であることは、言われなくともわかっているつもりだった。だけど、具体的な趙さんの言葉は胸に突き刺さる。

趙さんは、「在日一世はもう本当に残りわずかです。彼らにいい思いをさせてあげたい、このまま日本の地で亡くなるというのは本当に悔しいし辛い」と、語られる。「朝鮮学校が日本に存在してはいけないという風潮を、私は大変つらく悲しく思っております。朝鮮学校が存在すると言うことは、日本にとって日本を豊かにする事だと思っております」とも。趙さんはこの学習会タイトル「私たちの街の朝鮮学校のこと知っていますか?」の「私たちの街の」が、ちゃんとつけられているところを「気に入った」と言われる。そういうことなのだ。この国がつくり出し押しつけた他者の歴史と、この社会が葬り去ろうとする歴史への無関心から、まずは抜け出さなくてはならない。ぜひ一読を!

●一部三〇〇円以上のカンパ
連絡先092-651-4816(福岡地区合同労組気付)

(桜井大子)

【映画を観た!!】東京オリンピック (総監修・市川崑、一九六五年) /民族の祭典・美の祭典 (レニ・リーフェンシュタール、一九三八年)

二〇二〇東京オリンピックが、このままでは再来年に開催されるということになる。各方面で衰退の速度があがり、閉塞の状態を深めているこの「日本」社会において、「国家の威信」を表現する数少ない「チャンス」と目されているのが、天皇の代替わりから東京オリンピックへと続くイベントだ。単なる二週間のスポーツイベントに、どれほどの国家の体重がかけられようとするのか。

しかしそれでもなお、開催させられさえすれば、無償労働や「教育」現場からの動員をかけ、外形的な「華やかさ」を煽るショー政治は展開されるだろう。だから、かつて「大成功」を収めたとされている、ナチスの一九三六年ベルリンオリンピックと、一九六四年の東京オリンピックの映画を見て、開催撤回運動の準備をしてみようとおもった。

レニ・リーフェンシュタールは、戦後、「美のため」「ありのままを撮影しただけ」と一貫してナチスへの積極的な加担を否認し続けた。もちろんこれは虚偽だ。それまでになかった彼女の映像表現や演出効果をのみ取り出し、「芸術」ゆえにその責任を弁護し捨象しようとする評価は「芸術」「批評」に携わる階層にはずっとあり、彼女はこれを狡猾に利用したのだ。

しかし、その映像がかつてないほど「優れた」ものとなった背景には、どれほどの特権と、投入され続けた大量の資源があったかは、少し映像を見ていくだけでも唖然とするほどだ。映画が最大の大衆的メディアとしてあった時代、映画産業は最高の投資効果をもたらすものだった。そしてリーフェンシュタールの映画は、多数の人間はもちろん、カメラやフィルム、移動撮影セットや自動車、大規模な照明、ひいては航空機まで、あらゆる資源を惜しみなくその映像表現に投入している。ナチスの第六回全国大会を素材とした『意志の勝利』を含めて、これほどまでに膨大な国家の特権を投入して制作された「作品」を、その「芸術性」だけで評価したいとはかけらも思えない。撮影されたもの、表現された映像以外に、どれほどの「事実」があったかについて、映画をめでる以外にほんの少しの想像力を働かせるだけでよい。

『民族の祭典』では、冒頭に、端正なギリシャ彫刻が全裸の男性と化し、円盤投げ、やり投げを演じ、さらに裸体の女性の舞踊が演じられ、これが炎に包まれて「聖火」と変わるというみごとに象徴的なシーンがある。そして「聖火」は、その数年後にはドイツの侵略を受ける国々を走り抜けてベルリンをめざすのだ。市川崑『東京オリンピック』でも、明らかにこれをリスペクトした聖火リレーが展開されていく。「聖火リレー」自体がベルリン五輪から開始されたのだが、より、オリンピック大会そのものの「原点」が、この映画にあるということを思い知らされる。オリンピックは、ナチスのベルリン大会、そしてこれを作品とした映画『オリンピア』二部作によって、その後のいっさいを決定づけた。

『美の祭典』の有名な冒頭もみごとだ。朝日に包まれた湖、朝露を含む蜘蛛の巣、虫、鳥たちが、朝もやの中をトレーニングする選手に重ねられてゆき、いつしか鍛え抜かれた選手の震える筋肉をありありと見せる体操競技になっていく。『民族の祭典』はメインスタジアムで機嫌よく観戦するヒトラーを数多く写し、ほぼすべて陸上競技でまとめられているが、『美の祭典』ではこれ以外の競技で構成される。その締めくくりには、高飛び込み競技をえんえんと写すのだが、あらゆる角度から空を背景にスローモーション撮影される。宙を舞うさまざまな姿態の裸の肉体が神秘的に演出され、そこに翻る各国旗がオーバーラップされて「聖火」が消えていくとともに、天空から太陽の幾筋もの光が差し込むのだ。なんともはや。ドキュメンタリーというよりも、むしろアニメ的な演出効果である。

『東京オリンピック』は、作為性でこれに及ばないぶん、より「人間ドラマ」を演出しようとしたのだろう。孤独なランナーを追ったり、選手が倒れる姿や足のマメをクローズアップするシーンもある。さまざまな場面で、選手たちの表情をリアルにとらえる技術はさすがと唸らせるものはある。

しかし、映画もスポーツも、すでにこの私たちの暮らす現実の中では「崇高さ」を喪失している。とりわけ現代スポーツは、国家や利権組織・関連企業と結びつくほどにその姿を変えた。「ルール」や選手資格は大規模な大会ごとに変形していく。指導やコーチはハラスメントと同義にまで近づき、いまやスポーツは暴力を緩和する装置ではなく、暴力そのものだ。そのことをあらためて捉え返すためにも、リーフェンシュタールの『意志の勝利』と『オリンピア』二部作、市川崑『東京オリンピック』は、考えさせる素材に満ちているとおもう。

(蝙蝠)

【今月のAlert】「元号」・「代替わり」 準備の本格化 さまざまな抵抗の回路を!

新天皇「即位」まで一年を切り、「代替わり」に向けた準備が着々と進んでいる。五月一七日、「新元号への円滑な移行に向けた関係省庁連絡会議」(議長=古谷一之・内閣官房副長官補)は初会合を開き、各省庁の幹部らに対して「新元号の公表時期を改元の一カ月前と想定し、準備を進める」との政府方針が示された。政府は改元日までに準備を終えるのが基本とするが、元号を用いた行政システムの一部では改修が間に合わない見通しであり、将来の改元も見据え、政府はシステム間のやり取りを西暦で統一するよう、関係省庁に中長期的な改修も指示した、と報道されている。

カレンダー業界などは、去年の六月から、最低一年前に発表してくれないと対応できないからと、早期の新元号発表を求めていたし、IT業界などからも「一か月前の公表は危険」「果たして一か月で間に合うものなのか」などと懸念の声も上がっているという。退位特例法の成立にあたって、「改元に伴って国民生活に支障が生ずることがないように」との、言い訳的な付帯決議がなされていたが、このありさまだ。

あまりに早い新元号の公表は、いまの天皇に「失礼」だとか、「二重権威」が生ずるとか、意味不明の言い草で、当初は今年の夏とも言われていた公表時期をずるずると伸ばし、挙句、元号制度の不便・不合理さを浮き立たせてしまったことは、嗤うべき自滅であったというべきだが、だから元号制度をやめてしまおうという声が、マスメディアの主流に掲げられることはない。元号そのものは自明の前提としながら、その「合理的運用」を提言するだけだ。

「皇位継承儀式」に関しても事情は似ている。四月三日、政府は「剣璽等承継の儀」や「即位の礼正殿の儀」など即位関連の五儀式と、新設される「退位礼正殿の儀」を「国事行為」としておこない、「大嘗祭」については宗教的性格を考慮して「国事行為」とはしないものの、公費(宮廷費)を支出するなどの方針を閣議了解した。儀式に使うためだけの「大嘗宮」の建設など、儀式のためには膨大な費用がかかるための措置だろう。

四月三〇日付東京新聞は社説で、前回の即位・大嘗祭において、政教分離訴訟がおこされたことなどを紹介しながら、「戦前の宗教性は排して」「象徴天皇の代替わりは国民の理解を得つつ、憲法との調和が必要である。政府にはそんな再検討と準備が求められている」と主張している。「代替わり」の「民主化」を求めるものであっても、「代替わり」や天皇制自体に関する批判的な視点はかけらもない。これは、「憲法にもとづく国民主権と政教分離の原則にかなった新しい(「代替わり」儀式の)やり方をつくりだすべき」であると政府・議会に申し入れた日本共産党の姿勢にも示されている、この国における「リベラル」の天皇問題に関する態度の主流をなすものだ。

(ここで注意しておかなければならないと思われるのは、「戦前回帰の宗教ナショナリズムを抱く人たちに、皇室祭祀が利用される恐れがある」という危機意識に立ちつつ、天皇制をめぐっては、「神聖か象徴か」という問いがある、「『慰霊の旅』などを続ける今上天皇のあり方が、神聖国家回帰に対する防波堤の役割を果たしてきた」と評価する島薗進らの議論である(四月一二日東京新聞・ こちら特報部)。これだけならよくある「リベラル」の明仁天皇評価の範囲だが、島薗はさらに一歩進んで、「民主主義の次元には、宗教的な次元が欠かせない」という論理で、明仁天皇制の論理を正当化するのだ。詳述する紙幅はないが、天皇儀礼や「国家神道」、「政教分離」というものを考える上で、きわめて危険な議論であると思う)。

こうした言論状況の中で、私たちに求められているのは、身分差別と人権侵害の象徴であり、人びとの意識を、日常的に国家的共同性へと包摂・統合する国家の装置としてある君主制度=象徴天皇制を拒否するという立場から、状況にどのように介入していく言説を運動的に作り出していくかということであり続けている。

しかしすでに、この間、反天連も呼びかけ団体の一つに加わって展開されている「元号はいらない署名運動」、首都圏や各地で始まっているさまざまな天皇制反対の動きとその連携、また、即位・大嘗祭を違憲訴訟で問うていこうという動き、そしてまだ私たちの知らない具体的な回路はいくつも出てきているはずだ。元号はいらない署名運動では、七月二一日に集会も準備している(一三時一五分開場、文京区民センター)。行動し、つながりあい、議論していこう。

(北野誉)