【学習会報告】菱木政晴『市民的自由の危機と宗教―改憲・靖国神社・政教分離』 (二〇〇七年、白澤社)

著者によれば、近代国家による戦争と宗教が交錯するところに「国家神道」は存在する。したがってその「国家神道」には仏教等も内包されている。かかる「国家神道」への対抗的措置として戦後に規定されたのが政教分離と信教の自由にほかならない。そもそも共同体と宗教は不可分であり、近代国家という共同体もまた何らかのかたちで宗教に関わらざるをえないと著者は言う。近代国家とそのかたちをとらない共同体の相違は(総動員)戦争であり、日本では戦争のために「国民」を動員する宗教として「国家神道」が存在し、靖国神社がその装置としての役割をかつて果たした。そしていまもなお忠魂碑などとともにそのような顕彰施設は動員の装置として潜在している。どういうことか。それは戦争による死者を天皇の軍隊として選別し、「英霊」として合祀をすること、つまり戦争に役立った名誉の戦死として暴力的に死者を意味づけることで、その死者には「名誉」を、その死者の周囲には「敬意と感謝」を与え、来たるべき戦争のさいに人の生死という非日常的なものを受け入れやすくさせると同時に、社会統合機能を果たす装置として温存されているということである。政教分離と信教の自由をめぐる訴訟とは、したがって、戦争への抵抗でもあるということだ。

死者というもはや語ることができない、あるいは語れない存在との超越的なコミュニケーションの方法と死者への意味づけを自由に選択できることが信教の自由であると著者は述べている。かかる意味で天皇制軍国主義を賛美する靖国神社や忠魂碑が「戦争に役立った」という物語によって死者を選別して意味付けをし、強制的に合祀をするのは信教の自由に反するのである。

しかし、そのような顕彰施設はそれ自体としては「宗教」としての機能はもち得ない。信仰されることではじめて「国家神道」の装置になる。そのさい、著者が問題にするのは宗教的なものに対する無自覚さ、著者の言葉をつかえば「漠然としたものへの尊重」、つまり宗教への情緒的態度である。それはその情緒にうったえかける意味付けをされれば足をすくわれる態度であり、その情緒を共有しない者たちへの排他的態度にもなる。そのタブー意識による信仰対象の行いは思考停止的に受け入れられ、社会統合機能を果たす。これは天皇崇拝=「天皇教」につながる問題でもあろう。宗教性への無自覚さが、このような宗教を支えているのだ。意識されない所与のものとして自然化された宗教意識を脱自然化させていくこと。つまり、宗教として意識されていない諸々のものを「宗教」として名指し、社会的に自覚させていくこと。政教分離と信教の自由をめぐる闘いとは、そのような過程でもあるだろう。そしてそれは、「漠然としたものへの尊重」の対象である天皇制と靖国を解体するプロセスでもあるのだ。

次回は赤澤史朗『戦没者合祀と靖国神社』(吉川弘文館)を読む。

(羽黒仁史)

【集会報告】「明治150年」記念式典反対銀座デモ

政府の記念式典を翌日に控えた一〇月二二日夕方、日比谷公園霞門において、「明治150年」記念式典反対デモが反天皇制運動の一日実行委の主催で行われた。

二三日の政府主催の記念式典は憲政会館で行われた。しかし一九六八年の「明治100年式典」と比べると、規模もはるかに縮小され、三〇分たらずの式典で、天皇の出席もなかった。共産党、自由党、社民党議員も欠席するような式典。メディアも書いているが「代替わり」を控えて、「政治利用」との批判をかわそうとしたからではないか。

実行委の主催者発言は、「明治一五〇年」とは近代天皇制国家の歴史に他ならず、アイヌ、琉球に対する併合に始まる植民地支配と侵略戦争の歴史である、にもかかわらず「明治の精神」の「健康さ」をうたいあげる一五〇年キャンペーンの欺瞞性を批判した。

続いて、二〇日に、明治一五〇年への批判も含めて、3・1朝鮮独立運動一〇〇周年キャンペーン集会に取り組んだ「日韓民衆連帯全国ネットワーク」、一一月二五日に「終わりにしよう天皇制 2018大集会&デモ」を準備している「終わりにしよう天皇制!『代替わり』反対ネットワーク」、二三日当日に渋谷でのデモを計画している「反戦・反天皇制労働者ネットワーク」の連帯発言を受けて銀座デモに出発。

デモに対する右翼の妨害は、さほど大きなものではなかったが、外堀通りに出る手前で先頭の横断幕を奪おうとする右翼が突入してもみ合いとなった。横断幕が奪われたりけが人が出たりということはなかったが、鉄製のポールが破損させられた。また、デモの人数並みの大量の公安、過剰な警備が目立った。

デモ終了後、新宿区の公園規制をはじめとするデモ規制反対に取り組む「デモ・集会ぐらい自由にやらせろ!」実行委からのアピールを受けた。この日の行動でも、日比谷公園の管理事務所は、デモに対するさまざまな規制を条件付けてきた。こうした問題も、運動圏においてひろく共有されていかなければならない。参加者は六〇名だった。

(実行委/北野誉)

【今月のAlert】歴史認識をめぐる社会のゆらぎの中で いまこそ「終わりにしよう!天皇制」

一〇月二三日、「明治一五〇年」の政府式典が、なんともひっそりと終了した。そのころ明仁美智子は、高松宮の名を冠する賞のレセプションで、カトリーヌ・ドヌーブらと歓談して政府式典には出席せず、宮内庁は「政府から声がけがなかった」とした。昨年の早い段階から、政府や自治体レベルでは「明治一五〇年」を冠し顕彰する催しがいくつも準備されていたが、いずれも広く展開できず立ち枯れている。もはやただ忘れ去られていくだろうが、これはこの種の国家的イベントの展開として興味深い。ほぼ確実なのは、皇室〜宮内庁周辺が安倍らによる天皇利用を忌避したと思われることだ。明仁は、昭和天皇裕仁など天皇制の戦争責任に対して「敏感」に反応しながら、天皇制を中心とする歴史修正主義を推し進めてきた。その政治思想が安倍ら政権担当者たちのそれとかけ離れたものではないことは明らかだが、今回の対応は、天皇らの一種の「危機管理」ということでもあるだろう。安倍政府周辺の利権と横暴、瀆職にまみれた姿への批判が、昨年来、さまざまに噴出していることも理由として想定できる。

このかん、話題になったことのひとつに、靖国神社の宮司による「皇室批判」が露呈したことが挙げられよう。週刊誌へのリークにより、天皇・皇族による「靖国神社参拝」が裕仁の時代の末期から途絶えたことが、靖国派にとって深刻なダメージを与えており、これが恨みに近いものとまで立ち至っていることが明らかとなった。もはや明仁の靖国参拝はなく、次世代の徳仁と雅子においても「今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」とまでぶちまけた小堀邦夫宮司は、余儀なく辞任した。8・15や、つい先だっての「明治一五〇年」などにも私たちにつきまとった極右の暴力的なヘイターたちの、ネットやメディア上での無様な姿も目につく。これもまた、天皇代替わり状況の重要なポイントである。

しかしこれらは、天皇制や日本国家の歴史修正主義が崩壊しているということとは全く異なったことである。一〇月二五日、安倍による靖国公式参拝を弾劾して取り組まれている私たち原告団による訴訟の控訴審は、あっけなく控訴棄却された。三選して傲慢さを強める安倍への批判も、靖国神社の愚かな実態も、これには何一つ影響を与えなかった。そしてまた、一〇月三〇日の韓国におけるいわゆる「徴用工裁判」で、韓国大審院により個人請求権と賠償金支払いが認められた歴史的な判決に対する、日本国内の政府やメディアなどによる「反韓国」主張の膨大な垂れ流しは、日本国家や社会が、「好景気」という虚言の陰でどれほど社会不安と排外主義を膨らませているかを明らかにした。それはまた、中国への侵略の歴史的事実への具体的な対応はもちろん、いまだ国交すらない「北朝鮮」国家や、そこに暮らす人びととの今後の関係性をも照らしだし、私たちの今後を変えなければならないという重要かつ最大の課題を示すものともなる。

天皇制の姿は帝国憲法の「神聖・不可侵」な「統治権の総攬者」から、日本国憲法の「象徴」へと変わりながらも、その植民地主義や戦争責任はいずれも問わずに済まされようとしてきた。国家の責任を「国民」個々人に擦りつけることによって、国家や天皇、為政者や軍への憤りを鬱々と内向させてきた現実が、植民地とされた地域の人びとからの告発により、直面させられると同時に、その犯罪と歴史修正主義が根本から問われるに至ったのだ。「明治一五〇年」の内実は、やはりあらためて認識しなおされるべきであり、その先にこそ、私たちは向かわなければならない。
政府は、即位関連の日程やこれに向けた体制を策定した。天皇の代替わりをめぐる私たちの行動は、より具体的なものへと進めなければならない。私たちは、「終わりにしよう!天皇制」を合言葉に、代替わりに反対する運動のネットワークをいま立ち上げようとしている。一一月二五日には、集会を準備している。ぜひともこのネットワークへの参加を呼びかけたい。

(蝙蝠)

【表紙コラム】

10月25日、この4年半反天連メンバーも関わってきた安倍靖国参拝違憲訴訟(東京)控訴審の判決言い渡しがなされた。原告(控訴人)と弁護団の努力で、膨大な書面や意見書が提出され、法廷陳述や本人尋問などが展開されてきた。2017年4月の東京地裁岡崎判決は、安倍晋三が靖国で平和を祈ったと言っているんだから事実はそうなのだ、というまったくもってひどい判決だった。そして今回の東京高裁大段裁判長は、たった2回で審理を打ち切った挙句、岡崎判決をそのままなぞっただけの判決を下した。

裁判所の論理は、明らかに安倍の行為を正当化する政治的意図が先にあって、そこから逆算して理屈をこじつけた作文である。法廷でとばされたヤジに裁判長がマジギレしていたが、実は裁判長もその自覚があって、密かに恥じていたからではないのか。司法修習生時代の裁判長を知るある弁護士は、昔はこんなやつではなかったのに……と慨嘆していたが、まさに権力の味はなんとやら。

 30日には朝鮮高校生「無償化」裁判の高裁判決があった。こちらも大阪高裁に続いて、控訴人敗訴の不当判決。所詮は権力の機関なので、司法に幻想はもっていないつもりだが、それにしても法の法たるゆえんはどこに行ったのかと思わないではいられない。一方、韓国では、同じ30日に、新日鉄住金に対して元徴用工に対して賠償を命じる大法院(最高裁)の判決が出た。冷戦体制の下でつくられた日韓条約・日韓請求権協定の不当な枠組みに風穴をあける判決が確定したわけである。韓国における民衆運動のエネルギーは、確実に政治のありかたを変えている。これに対して日本では、政府のみならず「リベラル」とされるメディアを含めて、日韓関係を危機に陥らせる判決などと批判している。この落差。明治150年の政府式典もあったが、それこそ近代の起点から現在に続く帝国の歴史総体を問わなければならない。(北)

【月刊ニュース】反天皇制運動Alert 29号(2018年11月 通巻411号)

今月のAlert ◉ 歴史認識をめぐる社会のゆらぎの中で いまこそ「終わりにしよう!天皇制」(蝙蝠)
反天ジャーナル ◉ ─核女、ななこ、日報でも探してろ!
状況批評 ◉ 明仁と天皇制を考える(清水雅彦)
書評 ◉ 小田原紀雄『磔刑の彼方へ──社会活動全記録(上・下)』(中西昭雄)
ネットワーク ◉ 三〇年ぶりの天皇「代替わり」──攻防線を引きなおせ(井上森)
太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈102〉 ◉ 東アジアにおける変革の動きと、停滞を続ける歴史認識(太田昌国)
マスコミじかけの天皇制〈28〉◉ 「放射能は安全!?」「天皇制は全ての差別の根源」ではなくなった、だって?─〈壊憲天皇明仁〉その26(天野恵一)
野次馬日誌
集会の真相◉ スポーツ(活動)の主役は誰か/緊急会議連続シンポジウム「福島とチェルノブイリ」/朝鮮半島の大転換と日本の進路/差別・排外主義を許すな!生きる権利に国境はない!/「明治150年」記念式典反対銀座デモ
学習会報告◉ 菱木政晴『市民的自由の危機と宗教―改憲・靖国神社・政教分離』(二〇〇七年、白澤社)
反天日誌
集会情報

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*2018年11月5日発行/B5判16ページ/一部250円
模索舎(東京・新宿)でも購入できます。
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/