日別アーカイブ: 2019年5月8日
【学習会報告】学習会報告 原武史『平成の終焉』 (岩波新書、二〇一九年)
この間、メディアに頻繁に登場する原武史の新刊。
二〇一六年八月八日のビデオメッセージについて分析を加えた部分では「憲法で禁じられた権力の主体になっていること」「国民」から排除される存在への着目、天皇警備や警備や規制による人権侵害の問題など、私たちがこれまで主張してきた内容と重なる部分も多い(摂政の拒絶に、「大正」を繰り返してはならないという明仁の意志があったなどの主張は、原ならではの視点だが)。続く、「平成流」といわれる明仁・美智子の行動が、「昭和」において胚胎してきたものであったこと、それが美智子の主導で形成されてきたことについて、地方紙の分析などをつうじて詳細になされた部分は、とくに皇太子時代の、地方農村の若者や女性たちとの「懇談会」についてなど、とてもおもしろかった。「昭和」と「平成」における彼らの行為の連続性と変化とが、具体的に整理されていて便利だ、という感想が多かった。
最後に「ポスト平成の皇室」がどうなるかが「予想」されている。それが明仁が望んだような「象徴天皇の務め」通りになるかどうか。これは、徳仁天皇制を、われわれがどのようなものとしてとらえ、それとどう対決していくのかということを考える上でも参考になる。
一方、象徴天皇制の務めを天皇自身が定義づけたことに疑義を示しつつも、象徴天皇制を「深く考えてこなかった国民」という存在に理由を求め、「猛省する必要」を説くなど、批判的スタンスが一貫していない部分が随所にある。これは、この本のもとになったテキストの成り立ちと関係があるのでは、という推測も。明仁・美智子の「市井の人々との対話」をパトリオティズムに根ざしたナショナリズムとした部分も議論になった。
次回は五月二八日(火)、井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)を読む。
(北野誉)
【集会報告】4・27-5・1 おわてんねっと「反天 WEEK」をやりぬいたぞ!
今回の明仁退位=徳仁即位という天皇「奉祝」漬けの日々を、反天皇の日々として打ち返していこうという趣旨で、「終わりにしよう天皇制!「代替わり」反対ネットワーク」(おわてんねっと)は連続行動として「反天WEEK」を呼びかけた。以下、まとめて簡単に報告。
●四月二七日、「アキヒト退位・ナルヒト即位!? 今こそ問い直そう!天皇制」集会
正確には、おわてんねっとに賛同している練馬の会の集会だが、反天WEEKの初日として位置づけた。講師は伊藤晃さん。「象徴天皇制の正体」と題して多面的に報告。おわてんねっとからもアピール。参加者一〇〇名。
●四月二八日、「沖縄デー」集会
講師は反天連の天野恵一。「沖縄とアキヒト天皇の歴史」を丁寧に分析。一坪反戦地主会関東ブロックの与儀睦美さん、沖縄機動隊派遣住民訴訟の岩川碧さん、香港人靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会の和仁廉夫さんからアピール。参加者一二〇名。
●四月二九日、「昭和の日」反対立川デモ
立川の緑町公園から昭和記念公園・昭和天皇記念館に向けたデモ。出発前、三多摩地域で活動を持続してきた人たちを中心にアピール。「日の丸・君が代」問題、「慰安婦」問題、ミニコミ活動、立川自衛隊監視テント村など。参加者一五〇名。
●四月三〇日、退位で終わろう天皇制!
新宿大アピール
新宿アルタ前の一等地を占拠し、反天龍の横断幕を広げてアピール。目の前に右翼が陣取り、間に警察が割って入る形となり、残念ながらビラまきはできず。しかし二時間以上にわたって、賑やかに参加者のアピールやおっちんズの歌、シュプレヒコールを続けた。そして五時から始まった明仁天皇退位式がアルタの大画面に映し出されると、式典の間中、抗議のコールをあげ続ける。小雨にもかかわらず、一五〇名が参加して解放的な時間をつくりだした。
●五月一日、新天皇いらない銀座デモ
新橋駅前のホールに集合。人がどんどん集まって会場に入りきれず。デモ出発前、女性と天皇制研究会、オリンピック災害おことわリンク・鵜飼哲さん、民族問題研究・太田昌国さん、wam・渡辺美奈さん、「直接行動」の仲間、homeら連、即位大嘗祭違憲訴訟の吉田哲也弁護士のアピール。雨のなか、「終わりにしよう天皇制」の声を銀座に響かせる。この二五年くらいでは、反天皇制運動としては最大結集となる五〇〇名の参加。
とにかく、この状況に対して、「終わりにしよう天皇制」をメインスローガンとして一連の行動に取り組み、その全てにおいて私たちの予想を大きく超える結集をかちとれたことは、言うまでもなくこの「代替わり」状況に対して、疑問を感じる人が増えていることの反映だろう。
もちろん、「代替わり」儀式はこの期間だけで終わりではない。秋の「即位礼」「大嘗祭」をゴールとして、天皇・トランプ会談をはじめ、新天皇のお披露目としての各地「巡幸」など、「奉祝」状況は続くのだ。これに対して私たちは行動を続けていく。これからもおわてんねっとへの注目と参加を!
(おわてんねっと/S)
【集会報告】浜松・天皇制を考える集会
四月二〇日、浜松でも天皇制を考える講座が開催された。人権平和・浜松が準備した「代替わり問題浜松講座」だ。私は「ここが問題!天皇代替わり」という課題を与えられ、参加者とディスカッションするという、とても有意義な時間をもらった。
私からは、明仁天皇「退位」の経緯と問題を簡単におさらいし、「代替わり」のスタートの時点における天皇の「国政関与」問題、天皇制強化となる「退位特例法」成立等を時系列で簡単に整理し報告した。
次のステージとして「退位・即位・大嘗祭」と続く諸儀式が、政教分離・主権在民・民主主義原則に反することを、いくつかの具体的な例を出して紹介した。こういった、天皇の世代交代による大騒ぎが、天皇制の侵略戦争・植民地主義政策への責任という問題を希薄化していき、天皇の自由度が拡大していくことなども伝えたかった。今回、議論したかったことの一つは、この「代替わり」期間中に行われる天皇制教育の問題であった。「万世一系」思想の普及、天皇とその一族が日本の「伝統・文化」を体現しているという妄想の普及、世襲制や家父長制の天皇一族を持ち上げることによって、世襲制・家父長制に正当性を与えてしまう教育、等々だ。
会場からは、実にたくさんの意見がざっくばらんに出された。印象に残っているのは、「恩赦」をめぐる議論だ。この問題は私の頭の片隅に残っている。最後に浜松恒例の、主催者グループの歌。「今回は「君主制からの解放」を歌ってくれた。
コミュニティカフェPaoという素敵な会場が、議論を堅苦しいものとさせず、参加者が自由に話しあえる場をつくり出していた。もっとこういった議論の場がたくさんあるといいよね、と本当に思う。
(大子)
【集会報告】人権と報道・連絡会定例学習会
四月一九日、水道橋のスペースたんぽぽで、「人権と報道・連絡会」の定例学習会が開かれた。今回は、文喜相韓国国会議長の「天皇謝罪要求」をテーマとしてもたれ、反天連の北野(私)が報告した。
報告内容は、私が本紙三月号「今月のALERT」に書いたような内容をベースにしたもので、国会議長の発言をめぐる、国内政治家を中心とした反応、天皇が実態として「元首」としてふるまい、海外からもそう見られている以上、共産党の志位和夫委員長が言うように「憲法上、天皇は政治的権能を持っていないから、謝罪は不可能」などと超然として済ませることはできないはず、結論としては「明仁は謝罪して退位し、天皇制もやめろ」というしかないだろうということを主張した。
そのうえで、戦後象徴天皇制国家の植民地支配責任の問題を「継続する植民地主義」としてとらえる視点から、六五年の日韓条約における日本側の「植民地支配正当論」の問題、八四年の全斗煥以降、歴代の韓国大統領来日のたびに繰り返された天皇の「おことば」の変化を取り上げ、それとそのときどきの政権の外交姿勢との関わりなどについて報告した。最後に、「代替わり」を迎える天皇制のあり方についても提起し、議論した。
人権と報道・連絡会は、民主主義を破壊する政権への批判をなしえないばかりか、それに積極的に加担するマスメディアのありかたを批判的に検証し続けてきたグループであり、天皇報道についても、反天連と共催で集会を持ったりしてきた。これからもいろいろ協力していければと思う。
(北野誉)
【追悼文】 追悼 高橋寿臣さん
今、私の手元に三本の原稿がある。一本は『「天皇代替わり」との闘い昭和Xデーについて』、一本は『かつて十・八羽田闘争があった』、そして『続全共闘白書』へのアンケート回答紙である。いずれも高橋寿臣さんから亡くなる数日前に「プリンタの調子が悪いので刷っておいて」と頼まれたものだ。原稿はすでに掲載予定の雑誌や機関紙に送られてはいたが、周辺にも配りたいとのことで、亡くなったその週にも手渡す予定になっていた。高橋さんの手に渡ることはもうない──原稿を手に私はいまだ呆然としている。
私が高橋さんと初めて会ったのは、一九八四年の反天連の立ち上げ時だった。救援運動を担っていたグループ・個人を中心に十数人が高円寺の事務所に集まり、反天皇制の運動をどうつくっていくかを話し合った。そこで、ひときわテンション高く大声で喋り、ガハハと陽気に笑う、それが高橋さんだった。当時、彼は「靖国問題研究会」の一員として参加し、靖国神社問題という視点を反天皇制運動に提示した。靖問研との出会いは反天連にとってとても大きかったと思う。全斗煥来日、中曽根の靖国神社公式参拝……、Xデーに向けて私たちは文字どおり走り続けた。
そのなかで高橋さんがしばしば口にした言葉が「課題にこだわる」であった。ヒロヒトXデー後の一九八九年の4・29を闘った後に彼が反天連ニュースに載せた一文がある。それまで共に反天皇制を闘った人々から、もっと幅広い課題での運動を起こしていくべきという声があり、それに対しての文である。
「……私たち〝心の狭い〞反天連は、このような時いつも、戦後大衆運動史の中で度々現れてきた『幅広主義』=運動の質を問わない『多数派形成論』や、それと必然的に結びついている運動のリーダー達の『課題ころがし』のスタイルの繰り返しでは?と、胡散臭さを感じとってしまう。……日本社会の変革の道筋や展望は、政治力学関係への場当り的利用主義では決して生み出されえないと思っているからである」。自身の党派経験への反省も込められていたように思う。
その高橋さんが最後までこだわっていたのが沖縄だった。亡くなる数日前、パソコン操作を手伝ってと言われ助っ人に出向いた。冒頭の『続全共闘白書』の回答を作成する作業だった。高橋さんは「つまらん質問するな〜」とブツブツ言いながらも一つ一つ真面目に答えていた(回答は本名での内容公表可としている)。「自主的な活動をしていますか」という問いに「日本国の沖縄への強権支配をやめさせるため、可能な限り動きたい」と回答、「沖縄の辺野古新基地阻止闘争にもっと関わりたいが、体力・金力の衰退が残念」とも書いている。そう答えながらも「もっと辺野古に行きたい」と口惜しそうに語っていた。そして一つの提案を聞いた。それは軟弱地盤が見つかった辺野古には莫大な税金が投入される、税金を使うなという裁判を起こせないかというものだった。〝税〞の観点で裁判を起こすことで辺野古の問題をヤマトの問題・関心事にできないか、阻止できないかという思いだった。
私はほぼ第一期で反天連を離れたが、それ以後のほうが高橋さんに多く会うようになったと思う。福島にも行った、辺野古にも行った。もちろん二人だけではない、パートナーの芥川さんや高橋さんの友人たちとの同行である。私は高橋さんの五歳ほど年下だが、高校・大学時代と運動の端っこにいて、対党派闘争も経験したので、高橋さんの全共闘時代の話を興味を持って聞いた。その時代の友人も多く紹介された。「遊び」にもよく誘われた。「野沢温泉に行かないか」「和歌山のクルマ旅に行こう」と言われ、高橋さんと話すのが大好きだった私は声がかかるたびにいそいそと出かけていった。ワイワイ遊ぶのが好きだった高橋さんは友人たちを結びつけるのも得意だった。先日の葬儀で、そうして知り合った一人から「僕たちの〝カナメ〞がなくなってしまったね」とポツリと言われた。そう、私(たち)は要を失ってしまったのだ。
最近は自分の闘争の原点と言っていた十・八羽田闘争を考える山﨑博昭プロジェクトにも顔を出していると聞いた。そこでファンだった歌人・道浦母都子に会ったと嬉しそうに話していた。光州事件を描いた映画『タクシー運転手〜』ではいつも腰に下げていたタオルで涙を拭っていた。人一倍涙もろく、闘う人が大好きだった。大の中日ドラゴンズファンでもあった(葬儀のとき棺に中スポを入れた友人もいた)。いろんな高橋さんと会ったなあと思う。
高橋さんが亡くなったのは新元号が発表された日だ。昼近くにプールに行きサウナで倒れてということなので果たして新元号を知っていたのか……。発表から続くあのバカ騒ぎをどう思っただろう。
亡くなる数日前にも高橋さんと飲んだ。よく飲み、よく食べ、よく喋り、そしてやはりガハハハと甲高く笑った。緩んだ差し歯が飛び出しそうになって慌てて押さえながら、笑い続けていた。
高橋さんはもういないのだと繰り返す。でも私はまだその世界に馴染めない。いつもせっかちだった高橋さん、でも、今回ばかりはせっかちすぎやしませんか。
(末田亜子・反天連OB)
【今月のAlert 】この連続行動の成果を 天皇トランプ会談にぶつけていこう!
四月三〇日、明仁が「退位」し、五月一日には徳仁が「即位」した。私たちは、四月二七日から「終わりにしよう天皇制!反天WEEK」として、五月一日までの五日間という異例の連続行動を呼びかけた。
まず参加者の数を連ねよう。四月二七日に練馬のグループの主催で行われ、私たちにいつも助言してくれている歴史家の伊藤晃さんが話された集会は、一〇〇名の参加者を得た。
かつてサンフランシスコ条約でヤマトが占領下から脱却すると同時に、天皇により米軍基地の島として売り渡された四月二八日の沖縄デー集会は、一二〇名の参加者。恥知らずにも戦争責任を否定し続けた裕仁の誕生日を記念日とする四月二九日には、立川で、昭和記念公園、昭和天皇記念館、さらに自衛隊基地に向けたデモ行動が取り組まれ、一五〇名の参加者。さらに四月三〇日には、明仁退位の一連の儀式が実施される時間に合わせて、新宿東口アルタ前広場で二時間にわたって「退位で終わろう天皇制!新宿大アピール」を展開し、見た目は警察に封じ込められているかのごとき状況ながら、心から自由なアピールを展開、数多くの友人知人たち一五〇名が参加してくれた。
そして迎えた五月一日、新橋での集会に参加してくれた人びとの発言はいずれも重く大切なものだったが、さあデモへの出発をというとき、並んでくれた列は驚くほど長く続いて、実数で五〇〇名の参加により銀座を歩くことができた。人の列をふり返ったとき、雨の中ということもあってか最後尾が見えず、心の底から熱いものがこみ上げてくるのをおぼえた。
この時期には、全国各地でいくつもの取り組みがなされており、「天皇制批判」を正面から掲げたものでなくても、この「奉祝」状況に対して批判する発言が多く飛び交ったはずだ。私たちはいまなお微力ながら、天皇制を批判する大衆的な運動としての確かな手ごたえを感じることができたと、きっぱりと言い切っておきたい。
◎
新天皇となった徳仁は「即位後朝見の儀」において「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たす」と述べた。三〇年前の明仁の即位に際しての発言には「日本国及び日本国民統合の象徴としての責務」というものはない。もちろん日本国憲法上には「象徴」という定義こそあれ、このような天皇の「責務」などないわけで、これこそが、明仁がその天皇としての活動を通じて造り上げてきた「象徴としての行為」ということだ。私たちがくりかえし批判し、憲法学者からも指摘されてきたように、「象徴としての責務」「象徴としての行為」は、法に記述もされず定義のための論議も経由せず、憲法の制約から離れて天皇自身によってのみ位置づけられている、いわば天皇の「フリーハンド」となっている領域だ。これは、時代状況、政治や社会状況に応じて、皇室祭祀や「祈り」というパフォーマンスの宗教行為とともに、今後はさらにさまざまな内容をもって繰り出されてくるはずだ。
天皇の「代替わり」状況は、これからもまだ続く。この秋には即位礼や大嘗祭を中心としたスケジュールがすでに組まれている。「奉祝」の宣伝が政府やメディアにより広報され、多幸性の空気が支配するそのなかで、安倍政権の国内での独裁強化が、アメリカの政治的軍事的影響へのさらなる拝跪として立ち現れ、同時にアメリカの黙認の下での日本国憲法の改悪までも具体化する可能性が十分に考えられる。
安倍は、これに乗じてアメリカのトランプ大統領の訪日を具体化させた。五月二五日から二八日までの「国賓」としての訪日においては、アジアの隣国など他国にさきがけてトランプと徳仁の会談が行なわれる。日本経済への干渉によりさらに産業構造がゆがめられ、もっと悪いことにアメリカの軍事産業への奉仕のために、欠陥機ともいわれるF35やオスプレイなどをはじめとする武器購入が進められるだろう。徳仁とともに、新皇后となった雅子も、元外務官僚としてのキャリアを発揮するかもしれない。安倍のおべっかも大量に流されるだろうし、何一つとして良い方向性が出るとは考えられない。
私たちは五月二六日に新宿においてデモを準備している。日米同盟・安保強化の天皇外交を許すな!行動に多くの人びとの参加を呼びかける。
(蝙蝠)
【月刊ニュース】反天皇制運動ALERT 35号(2019年5月 通巻417号)
今月のAlert ◉ この連続行動の成果を天皇トランプ会談にぶつけていこう!(蝙蝠)
反天ジャーナル ◉ ─トメ吉、テレびっ子、橙
状況批評 ◉ 『国体論』ノート(松葉祥一)
太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈107〉 ◉ 「開明的な現代性」と神話・宗教世界の平和共存(太田昌国)
マスコミじかけの天皇制〈34〉◉ 〈象徴天皇教〉の〈朕朕(オレオレ)詐欺〉に抗して─〈壊憲天皇明仁〉その32(天野恵一)
野次馬日誌
集会の真相◉人権と報道・連絡会定例学習会/浜松・天皇制を考える集会/4・27-5 ・1おわてんねっと「反天WEEK」をやりぬいたぞ!
反天日誌
集会情報
*2019年5月7日発行/B5判12ページ/一部250円
*模索舎(東京・新宿)でも購入できます。
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/