私そして私たちが反天皇制運動連絡会として活動を開始した八〇年代は、経済の好況を背景に、この日本社会の全般が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』であるかのような夜郎自大の国家意識が、かなり広く覆っていたはずだ。しかし、その時代にイメージされ志向されていたはずの公平も公正も、ミレニアム以後の「クール・ジャパン」ごっこと同様に、いまさらながらではあるが、崩壊の一途をたどっていった。
これと同時に、八〇年代にはすでに裕仁の老化と衰弱が誰の目にも明瞭でもあり、しかも天皇の戦争責任の存在を隠蔽できないことによる歴史問題が、これに先立つ七〇年代には訪米や訪欧に対するさまざまな抗議行動や、沖縄「ひめゆりの塔事件」などの形で現れており、国家の戦争責任、戦後責任の問題もはっきりと浮上していたわけだ。
その時期には、メディアによる天皇や皇族のイメージのウォッシングとして、「ロイヤルファミリー」を「マイホーム」意識に重ねる意識操作がしばしば登場し、天皇による戦争の扱われ方もまた、戦記物より「聖断神話」、「大元帥」より「大帝」を印象づけるものが増えていた。そのなかで、中曽根により「戦後政治の総決算」が標榜され、政治経済の大がかりな再編が進められるとともに、広い意味での裕仁「Xデー」が開始されたのだった。極右政治家によって謳いあげられる戦後「総決算」と、戦後天皇制の再構築の接合は、これを嚆矢としてその後も繰り返されることになる。
その状況下で、反天皇制運動連絡会は、「この連絡会は、天皇制と闘う各戦線の担い手、その他多くの戦線で天皇制問題に理論的・実践的関心を抱いてきた人々、これまで天皇制批判の活動を理論的・思想的に担ってきた知識人等を幅広く結集し、運動面において、個別の闘いと全体の陣形の結合を媒介する機能を果たすと共に、天皇制を軸とした国家統合・地域統合の攻勢に対する緻密な情勢分析を行い、また理論的・思想的深化をはかることを目的として」いるとして立ち上げられた。
奇しくも「一九八四年」の三月一日に創刊準備号を発行し、裕仁の死と明仁の「即位」による「代替わり」を経た一九九一年二月一日に第八三号を発行して、第一期は閉じられている。
それからは、だいたい三年に一度で活動の期を閉じるということとし、以後は、「反天皇制運動SPIRITS」(一九九一年四月〜一九九四年三月)、「反天皇制運動NOISE」(一九九四年五月〜一九九七年五月)、「反天皇制運動じゃーなる」(一九九七年七月〜二〇〇〇年八月)、「反天皇制運動PUNCH!」(二〇〇〇年一〇月〜二〇〇三年一〇月)、「反天皇制運動DANCE!」(二〇〇三年一二月〜二〇〇六年一二月)、「反天皇制運動あにまる」(二〇〇六年一二月〜二〇〇九年一二月)、「反天皇制運動モンスター」(二〇一〇年一月〜二〇一三年二月)、「反天皇制運動カーニバル」(二〇一三年三月〜二〇一六年四月)、「反天皇制運動Alert」(二〇一六年六月〜)と続けて、今号では通巻四三九号となる。機関紙発行だけでなく、これにかつて発行した機関誌『季刊 運動〈経験〉』や、運動の折々に発行したニュース、報告集その他の刊行物なども多く、個人的には時期により活動歴の濃淡があるのだが、全体的にはそこそこに生産的であったはずだ。
天皇制国家のレンズを通すと、「戦争は平和である/自由は隷属である/無知は力である」という、呪われたオーウェルの「ニュースピーク」が伝わってくる。神道は宗教ではなく、天皇制は「権力」ではなく「権威」そして「国民の総意」である、天皇は「慈愛」で「国民を統合」する、「生まれによる差別」はなく、経済格差は「多様性」であり、ヘイトや暴力は「民族の癒し」である……。
これらに抵抗し、私たちは、このかんの活動を通じて、「反天皇制」という課題と、さまざまな闘いや理論的実践的課題とを突き合わせ、新たな視野を拓く努力を持続してきた。そして多くの人びととつながる理路を模索してきた。
予告してきたように、反天皇制運動連絡会は、裕仁の代替わり、明仁の代替わりを闘ってきて、この一〇期をもって閉じ、解散する。
とはいえ、私たちのそれぞれが分け持つものは、これからもつながりつつ革まっていくことになる。反天皇制運動連絡会の活動の、その期ごとの課題に向けた「結束」としてではなく、内外から「ハンテンレン」と呼ばれてきた何ものかも含め、積極的な価値が、よりはっきりと現れるよう力を尽くしたい。
(蝙蝠)