本書は靖国神社の合祀基準の変遷を豊富な資料でたどったものだが、極めて詳細である反面、分析や論理化が弱いとの感は否めない。
遺族への金銭支給と靖国合祀はゆるやかに連動し、「慰霊・追悼・顕彰」を通じて戦死者再生産装置は機能し続けた。しかしよく見れば、戊辰戦争までは「雑多な軍隊」と言える程に様々な職種・階級・身分が入り混じっているものが、軍人中心となり、警察官や軍役夫、民間人を合祀するか、戦病死や銃後の伝染病感染死などをどう扱うかをめぐって合祀基準は揺れ続ける。本書を通読すると、実は確固とした合祀基準などなく前例は忘れられ毎回場当たり的に事例を検討している実態が明らかになる。戦後は民間人の合祀が拡大し、戦争災害被災者も限度はあるものの合祀されるようになっていく。
著者はそれを望ましい変化ととらえている。著者が望むのは、戦後の価値観に合わせて軍人だけでなく空襲被災者を含む多くの民間人をも「戦没者」として合祀する民主的で平和的な靖国である。国立追悼施設ですらない。もちろん国家による追悼の問題性や天皇制の問題などは視野にない。前著『靖国神社』を読んでもそれに気づかず、靖国解体企画で講演依頼をして断られたことがあったが、今ならそれも理解できる。ああ、僕たちのなんと間抜けなことよ!
僕が一番気になったのは軍役夫たちの存在である。戦争は軍人だけで行うものでないことは、イラク戦争時にもクローズアップされた。軍夫、夫卒、傭人夫、雇員、傭人、馬丁、従卒、工夫等々と様々な呼び方をされた人々は、アンダークラスである僕の隣人、同僚たちだ。徴兵されずとも貧困層は戦争動員からは逃げられず、挙句「手段を選ばず利益を得ようとして参加」と死後も蔑まれる。それは僕たちの未来の姿でもあるのだろう。彼らのことをもっと知りたいのだが、研究書などあるんだろうか? これから調べてみようか。
次回は橋川文三『ナショナリズム』(ちくま学芸文庫)を読む。
(加藤匡通)