天皇の誕生日であるというだけで「祝日」とされていた一二月二三日は、今年から「ただの日」になる。昨年のこの日、反天連は例年どおり、明仁の「誕生日」を祝わない意思表示とともに、天皇制の問題を考えるための討論集会を開催した(集会報告参照)。そして、いよいよ「代替わり」本番の年が始まった。年明け早々から話題には事欠かないが、天皇の誕生日記者会見に触れないわけにはいかない。
明仁は、二〇一六年八月のビデオメッセージ同様、象徴の意味づけを自ら規定し、憲法が定める「国事行為」以外の行為を、「象徴としての行為」として正当化する発言をくり返すなど、実に多くを語った。これらについては私たちも繰り返し批判してきているので、ここでは以下三点に触れておきたい。
天皇が皇后を慮る言葉のなかに「自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、(中略)皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきた」というくだりがある。天皇一族は「国民」ではないという認識である。では一体何者であるのか。皇統譜に連なる者は「国民」ではない、という判断は成り立つ。しかし、皇統譜に入った美智子も、「皇室と国民の双方への献身」との表現からは、皇室に献身する立場にあるように読める。憲法には皇族の位置づけは何一つ触れていないし、皇室典範でも、天皇を支える一族としての位置が見えてくるが、何の規定もない。しかし、「国民」を超えた特別の存在であるというのが一般的な認識だろう。この特権的非国民たちについて、今さらだが、少し考えていく必要があるように思う。天皇予備軍と天皇予備軍をつくり出す血縁関係にある一族。その特別扱いの根拠はいったいどこにあるのか。合理的な判断ではたどり着かない何かに至るのではないか。
また、天皇は「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵してい」るとも語った。明仁天皇は日本が戦争に向かう時代に即位した。戦地への派兵と戦争法の乱立と、武器商人の台頭と、日本は過去の戦争の清算もできないまま、同盟国米国の戦争に加担し続けてきた。そして裕仁が最高責任者であった日本の侵略戦争被害国によってその責任を新たに追及されるさなかに退位する。どこが「戦争のない時代」なのだ。これは天皇がピンぼけなのではなく、「この戦争は平和である」という、明仁の最後のメッセージ、とてつもなく政治的発言として捉えるべきだろう。
そして、最後にもう一点。明仁は会見の最後にこのように述べた。「来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります」と。「退位」も「譲位」もなかった戦後象徴天皇制に、明仁が「皇室典範特例法」をつくらせ「退位」を認めさせた。しかし天皇は、その「退位」ではなく、「譲位」という言葉を使った。このことの意味を無視しない方がいいだろう。
皇位継承は天皇の意思ではなく制度(皇室典範)にしたがってなされる。だが「譲位」には、天皇の意思で皇位を後継者に譲り、「退位・即位」が行われるというニュアンスが加わる。実際、現実はそうなのであり、その現実をそれとして表現する言葉をわざわざ使って見せているようにしか見えない。
12・23の集会で、私は問題提起者の一人として、徳仁世代に皇室の自律をめざす言動が目立つこと、それが現天皇にも影響を及ぼしているのではないか、と提起した。そのときにこの明仁の言葉を、問題提起から取りこぼしていたので、ここで追記しておきたい。
さらに明仁は、「譲位」によって新しい時代が始まるとも述べている。メディアもよく使う表現だが、新天皇即位とともに新「元号」を制定し、天皇在位期間を一つの時代とすることを「伝統・文化」とすることに、天皇自身が価値付与し、社会的認知を迫る演出ともとれるのだ。
その新「元号」は、公表時期を四月一日に閣議決定し、同日公表という方針を、安倍は一月一日に報道させた。紆余曲折の裏話はメディアにも出ているが割愛。反天連も参加して行った「元号はいらない」署名は、一二月五日、内閣府に提出してきたが、短い期間で六八〇三筆。反対する人はいるのだ。また、「大嘗祭違憲訴訟」も一〇日に提訴され、第一回口頭弁論も来月には始まる予定。二次原告の募集も始まった。さまざまな反「代替わり」闘争がすでに開始されている。反基地、反戦、反差別、反安倍の闘いと繋がりながら模索していきたい。情報お見逃しなく、参加・ご協力を。
(桜井大子)