【学習会報告】立教女学院短期大学公開講座編『天皇制を考える』(新教出版、一九九〇年)

「昭和天皇Xデー」大騒ぎの状況の中で持たれたキリスト教大学での公開講座の記録である。このテキストは、この読書会の流れでは、平井啓之の『ある戦後』(特に、それに収められた「自己欺瞞の民族」)をふまえて、次へ、ということで選択された。ゆえに、ここに収められていた平井の「近代天皇制と日本人の意識」中心にレポートがなされ、「現人神」という観念(イデオロギー)の持つ日本的特殊性をめぐって討論が展開された。

もっとも問題を統括的に、広く論じているのはトップの島川雅史の「天皇教と象徴天皇制」である。島川の、キリスト教の「一神教」を超えた国家の「現人神」という〈天皇教〉の特別なイデオロギーが多様にうみだしつづけている諸問題の指摘は、整理され便利だという評価から論議はスタートした。

平井と島川の両者が非キリスト者で、森井眞(「精神の自由と天皇制」)と福澤道夫(「天皇制と信仰」)、塚田理(「天皇制とキリスト教)の三人がキリスト教信者としての歴史的体験をふまえた話である。塚田の、戦前、牧師の子どもとして育ち、ひどい差別とイジメの中で生きてきた(戦後の時間も)個人史を軸にした話と、森井の「神権天皇制」として成立した近代天皇制が自己のキリスト教徒として「精神の自由」を、どれだけゆがめてきたかという個人体験をバネにした歴史記述が、私たちに訴えるものがあるという感想が多かった。福澤は、イヌでもブタでも人間でも植物でも神になれるという「汎神論」の水平さに、キリスト教の「唯一人格神」の垂直(タテ支配)の原理を対置し、その上で〈現人神唯一絶対人格神〉の天皇教を論じているので、どういう象徴天皇制批判にいたるのかと期待させたが、まったく批判がつめられず大正デモクラシーの思想家の天皇教との共存する精神が肯定的に紹介されるだけでややガッカリ。

平井は「擬似一神教」という規定から、近代国家支配のための作為の体系的システムとして、教育勅語・軍人勅諭にはじまるもろもろの臣民教育の教材を貫く「万世一系」の国体イデオロギーを具体的に示して、「神でも人間でもどっちもありの」〈自己欺瞞〉の意識(民衆のそれ)をすりこみ続けた国家の作為(= ペテン)を抉り出している。

やはり平井の作業は、「新しい人間宣言」とネーミングされているアキヒト・メッセージのペテン的性格を、キチンとつかまえるためには、絶好の論文と、私には読めた。

次回は来年の一月三〇日、テキストは『紀元二六〇〇年』〈ケネス・ルオフ〉

(天野恵一)