【書評】『検閲という空気─自由を奪うNG社会』 アライ=ヒロユキ(社会評論社、二〇一八年)

 前世紀末以降の経済社会状況を表現するとき「失われた○○年」という呼び方が定着している。それは一〇年から二〇年となり、さらに年を加えられて、蔽いようのない社会の各方面における衰退を露呈している。これは、決して侵されてはならない基本的人権を、削ぎ落とし、歪め、改変して、全く別のものへとしようという、貧して鈍する圧力が増大する経過をも表現している。そのような中で、私たちのさまざまな領域における活動は、つねに著しい困難を強いられる。

 二〇一二年の「自民党憲法草案」では、基本的人権の中でも中核的な、生命・自由・幸福追求の権利や、表現の自由などが「公益及び公の秩序」の制限下に置かれている。そしてこれは、改憲への危惧などではなく、すでにさまざまな方面で開始されているわけだ。

 著者のアライ=ヒロユキが主要なフィールドとしてきたのは、美術・文化批評の分野である。本紙読者の関心に近いところでは「天皇アート論」(社会評論社)で天皇を対象とした表現を論じているし、フランスの『シャルリー・エブド』事件の衝撃の中で開催され、多数の参加者を集めた「表現の不自由展」でも、アライは主催の一人として関わってきた。

 だからもちろん、アート表現の問題もこの本の中では扱われている。しかし、この本の扱う領域、論じられている事件や事象の範囲はもっと広い。ここで扱われている問題は、そのほんのいくつかを抜き出しても、例えば、保育所と地域社会、生活保護への監視、「防犯」監視システム、海辺でのパーティや祭りの喧騒、地域での平和や戦争・憲法の催し、図書館の自由、メディアへの言論統制と報道の自由、歴史認識をめぐる「偏向」攻撃など、いずれも重要で、それにもかかわらずしばしば些細なことに見え、「一過性」の記憶とともに捨てられてしまいかねないテーマも多い。これらの忘れられてはならないことを拾い上げるということだけでも、それは大きな成果を生む。そして、著者はその一つひとつに向き合い、丁寧な分析と評価を刻んでおり、その視野の広さがこの本の重要なポイントとなっている。

 この間、国家により警察や軍隊の物理力をむき出しにする制限や弾圧が拡大している。そして、同時に、自治体や企業、住民間のコンフリクトから起因する制限はいっそう拡大している。これらには、じつは国家による制限や弾圧を、利害当事者の争いに仮装するかたちで、実際の権力関係を隠す目的で仕組まれていると考えられるものも多い。本質が視えなくされる中で、「対立」が演出され、その操作的な「関係性」のなかで、強制力を有する存在が「手を汚さずに」、強制力による抑圧の根拠を示すこともなく目的を果たすという構造だ。これらの構造は、インターネット社会のSNSなどのツールを経由してより有効に機能している。もちろん、ヘイトグループや右翼団体などの物理力もこれに組み合わされ、さらにコミュニケーションは息苦しく、ときには耐え難いものとなっている。そこでは、暴力やヘイトが、自由な生のための表現と同列化される倒錯も日常化している。

 「一見まったく異なる背景を持つ出来事が同じ時期に起こり、いわば行動を制約する重しのように社会に積み重なって」いる状況であり、「検閲、弾圧、規制、忖度、クレーム」など「いずれの言葉をもってしても事態を十分に説明するには事足りない」。著者のいう「NG社会」とは、このような社会状況を指している。「NG」とは「No Good」をつづめた表現の俗語で、よくない、ダメ、不可、不良品など、否定される対象へのラベリングである。それは、メディアの中で濫用される概念でもある。

 紆余曲折があっても、マクロ的に見ると自由は拡大すると観念されてきたのが近代の成果だ。しかしそれがさまざまな方向から制限されようとし、そうした制限こそが新しく優れた社会的な共通認識であるとされてきている。「自由からの逃走」(フロム)が雪崩をうってはじまろうとしているのだ。

 もとより、この状況に簡単な処方箋が書けるはずもない。しかし、このような事態だからこそ持続しなければならないことがある。著者は「数々の不正や不条理に対し、勇気をもって有害なものを投げつけること。言葉や表現、あるいは行動が含む有害なものを許容すること。そこから冷静に対話のための手段を採り、向き合うこと」を強調する。同意できる結論だろう。ものを見るとき、描かれなかったものに想いをいたすことに、意識的でありたいと思う。(二二〇〇円)             

(蝙蝠)