かつて急速な資本化国際化が進行していく状況の中で、「世界」が多くのひとの思考に像を結び始め、そのなかで「国家」意識、「国民」意識として、ナショナリズムは形成されていった。近現代においては、神の国ではなく人間社会の中で、その秩序と認識を「一般意志」にするべく、古くからの郷土感情や部族意識、さらにパトリオティズムなどとともに、さまざまな役割を与えられ担ってきた。
橋川は「戦中世代」であり、超国家主義や国粋主義が暴力と結びつく時代の中で精神形成を行なってきた経歴を持つ。だから、橋川の関心は、ナショナリズムの一般的な形態を見出すことよりも、幕藩体制から明治国家形成という日本近代国家の歴史を見据えるなかで、形成された日本のナショナリズムがどのような結末に至るかを、精神的・内的な経緯をふまえながら後づけていくことに向かう。
その分析を経たのち、橋川は、日本近代の天皇制のなかでは「天皇の意志以外に『一般意志』というものは成立しない」。「もししいて天皇制のもとで国民の一般意志を追求しようとするならば、それはたとえば北一輝の場合のように、天皇を国民の意志の傀儡とする道しかなかった」。それは不可能であることが立証され、「日本人の『一般意志』は、それ以来いまだ宙に浮いたまま」とするのである。
これらの論述は語り口もふくめて説得的だ。しかし橋川は、この書物では歴史の分析について「自由民権」期にとどめ、その後も、日本のナショナリズムと天皇制について論じるときには、具体的な分析より時代の「精神」を論じることに向かった。橋川の手法に倣ったままでは、掴みだされたはずの天皇制もナショナリズムも、「宙に浮いた」姿で君臨させられそうだ。橋川は対象に深く寄り添う。しかし、現在の社会のなかで「一国主義」に煽りたてられる「ナショナリズム」の問題は、この方法になじみにくいように感じる。
次回は二月二六日、『天皇と宗教』(講談社学術文庫・天皇の歴史9)を読む。
(蝙蝠)