本書は『天皇と宗教』というタイトルが示すように、天皇という存在と宗教の歴史的関係とその展開を概説した本である。近代以前の第一部は重厚な記述によって神祇制度の展開、支配階級における仏教受容、朝廷内の宗教行事の展開などを網羅的に取り上げ、手堅くそれらを整理しながら、随所で興味深い指摘をしてゆく。たとえば宮中祭祀における「神仏隔離」の発想の出発点を、当時の僧侶が「正しい」仏法を広めるために土俗信仰との差異化をはかった結果ではないかとし(もちろん、のちには仏教行事が浸透する)、仏教側に求めている点などは、いわば土俗信仰の外来信仰に対する反撥という自明化された図式への異議申し立てとして読める。ほかにもさまざまな論点をちりばめながら近代以前の天皇と宗教の関係について基礎的な知識をひととおり通覧させてくれるのが第一部である。
いっぽう、近代以降の第二部は挑戦的な内容である。村上重良の「国家神道」論には言及しないものの、第二部全体がその不在である「国家神道」論への批判的な関係として記述されている、と読むのは思い込みだろうか。わたしの読みが仮に正しいとしたら、こうなるだろうか。祭政一致は近代国民国家日本が形成される端緒において挫折を余儀なくされていたのであり、葬儀の関与の有無で国家にとっての「宗教」を規定することで神道のなかで関与したい者たちは教派神道に分かれさせ、キリスト教や仏教にも利益を与えるような「ある程度の満足」の結果としての神道非宗教論を内包した政教分離、そしてキリスト教国教化でもなく祭政一致でもなく、各方面に一定の譲歩をして「ある程度の満足」与えるための妥協の結果として天皇を国家の(宗教ではなく)道徳的機軸とした「第三の道」。たとえばそのなかで祭政一致を幻視させる「仕掛け」としての「私事」である天皇親祭の存在が神祇官再興運動のようなものを噴出させる。いわばそういった諸要因が重層的にうねる枠組のダイナミズムに戦前の政教関係は規定されていたのであり、「国家神道」なるものは幻だったのだ、というのが、大雑把な著者の主張だろうか。ほかにも多くの論点が盛り込まれており、受け止めなければならない指摘はあった。
しかし、著者は分析の対象を国家制度、支配層、そして宗教者に限りすぎているのではないだろうか。民衆の存在がまったく閑却されているが、「天皇と宗教」というテーマに民衆は必要ないということだろうか。加えて、著者は天皇祭祀を「私的」なものにするが、それはあまりにも図式的すぎるのではないか。天皇という神道の祭祀を行う君主の存在が国民国家の規範に作用する中心点に存在し、国家の諸制度を通して社会を、そして人民の生活を分節化・編成(=統合)するさいに、はたして天皇の信仰がまったく影響をあたえないのだろうか。たとえば即位の礼・大嘗祭という天皇の信仰儀礼がマス・メディアを通して全社会的に現出する空間は、天皇という存在が生まれながらに国家のなかに組み込まれた身分だからであろう。天皇という存在が生まれながらに制度的かつ社会的に身分が定まっていることを不問に付したまま、われわれとおなじようなかたちで「私的な領域」を有していると錯覚させてしまうイデオロギー作用と国家構造こそ、「公的なもの」と「私的なもの」の区分を融解させてしまうのだ。「天皇と宗教」というテーマ、つまり天皇制国家における政教関係の核心とは、ここにあるはずだ。
次回は河原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)を読む。
(羽黒仁史)