この間、メディアに頻繁に登場する原武史の新刊。
二〇一六年八月八日のビデオメッセージについて分析を加えた部分では「憲法で禁じられた権力の主体になっていること」「国民」から排除される存在への着目、天皇警備や警備や規制による人権侵害の問題など、私たちがこれまで主張してきた内容と重なる部分も多い(摂政の拒絶に、「大正」を繰り返してはならないという明仁の意志があったなどの主張は、原ならではの視点だが)。続く、「平成流」といわれる明仁・美智子の行動が、「昭和」において胚胎してきたものであったこと、それが美智子の主導で形成されてきたことについて、地方紙の分析などをつうじて詳細になされた部分は、とくに皇太子時代の、地方農村の若者や女性たちとの「懇談会」についてなど、とてもおもしろかった。「昭和」と「平成」における彼らの行為の連続性と変化とが、具体的に整理されていて便利だ、という感想が多かった。
最後に「ポスト平成の皇室」がどうなるかが「予想」されている。それが明仁が望んだような「象徴天皇の務め」通りになるかどうか。これは、徳仁天皇制を、われわれがどのようなものとしてとらえ、それとどう対決していくのかということを考える上でも参考になる。
一方、象徴天皇制の務めを天皇自身が定義づけたことに疑義を示しつつも、象徴天皇制を「深く考えてこなかった国民」という存在に理由を求め、「猛省する必要」を説くなど、批判的スタンスが一貫していない部分が随所にある。これは、この本のもとになったテキストの成り立ちと関係があるのでは、という推測も。明仁・美智子の「市井の人々との対話」をパトリオティズムに根ざしたナショナリズムとした部分も議論になった。
次回は五月二八日(火)、井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)を読む。
(北野誉)