徳仁が即位して二ヶ月。即位関連諸儀式の前半が一段落つく五月末から、大きなものでも米大統領会見、愛知植樹祭出席、仏大統領会見等々と、天皇皇后は精力的に動き続け、宮内庁HPの日録はビッシリと埋まっている。その間の新天皇・皇后への礼賛記事・祝賀ムードの押しつけ状況は尋常ではなく、地方議会の全会一致をめざす賀詞議決や、天皇制に反対する人への尾行なども含め、天皇制ファシズムとしか言いようがない状況が続いている。天皇制とはこういうものなのに、そのことに気づかせないのも天皇制だ。
また、皇后となった雅子は「生き生きと活躍」している。最悪のトランプ米大統領やマクロン仏大統領との「通訳を介せず」を売りとする会見賛美報道には、おぞましくて吐き気すら感じた。しかし雅子復活劇は賛美一色だ。皇太子妃時代の彼女に、ほんの少しでも同情する気持ちがあったからこそのゲンナリ感であり、さらにゲンナリ。
新天皇皇后のトランプとの会見は、現在の沖縄の基地問題、侵略戦争の責任問題とは完全に切り離され、賛美の対象でしかない。これは反天・反基地・反戦運動の大きな課題だ。古すぎるスローガンだが、やはり課題のクロスオーバーであり、運動が繋がっていくしかない。
この一ヶ月、記録しておきたいことは多いが、どうでもいいような「話題」として片付けられそうな秋篠家問題に少し触れておきたい。秋篠夫妻は六月二七日からポーランドを公式訪問した。「皇室外交」の問題はここでは横に置き、いま週刊誌次元で取り沙汰されている、出発前の二一日に行った記者会見を巡り、少し考えたことだ。
眞子の結婚問題について秋篠はこう答えている。「私は娘から話を聞いておりませんので、どのように今なっているのか、考えて
いるのかということは、私は分かりません」と。この言葉にたいして、秋篠がなかば匙を投げた的な評価や親子断絶など、批判的に語られ、破談宣言を暗に期待する記事が目立つ。しかし、親が娘の結婚に対して公に干渉することの方がおかしな話ではないのか。「自由を重んじる」という評価の秋篠らしい言葉であり、むしろ、このままでは結婚を認められないといった以前の家父長的な対応を反省したものとしても読める。実際、そのようなトーンの記事もちらほらある。また、報道にはないが、秋篠の以下のような応答もある。女性皇族の役割についての質問で、「(男女皇
族に)求められる役割というのは基本的に同じだと考えています。というか、特に女性に求められることというところが、今、思い付かない」と。
一五年前の、徳仁による「人格否定」発言をも思い出させる。この「人格否定」発言は、雅子を「子産み」機械に貶めていること
への批判として読むべきであると、私は考えている(これで徳仁を持ち上げるつもりはない。念のため)。徳仁については、二ヶ月前の即位後の一般参賀で述べたことばで、「国民」が「みなさん」に変わったということに、高い評価を与える言論もあった。
要するに、世代交代で天皇家は、脱「家父長制」、男女平等思考・非権威主義的対応に傾き始めているという読み方だってできるのだ。少なくとも、秋篠宮も徳仁天皇も、家父長然とした対応を、意図的であるかどうかはともかく、避けている。しかし、それならいいのか。身分制、家父長制、女性蔑視思想に貫かれた皇室典範は、皇室に向けたものであるが、同時にこの国の法律であり続けることに変わりはない。
ここで紹介する秋篠や徳仁の言動は一部でしかないが、先代天皇を反安倍の立場で称賛してきた「リベラル」派が、喜びそうなエピソードばかりである。しかし、天皇制は劣化しながら進化しているだけなのだ。それは、あるべきとされてきた伝統や制度を脱構築しながらの進化といえる。
これから出てくるのは皇位継承問題である。「たかだか一五〇年の伝統」と言うのは、私たちではなく、実は、「神武天皇以来の家系」を重んじている天皇たちの方である。天皇たちは常に、
「古く遡れば」というエクスキューズを懐に入れている。皇位継承者不足のいま、女性・女系天皇を認めさせる方向に動く可能性は大きい。
反天連も参加する〈おわてんねっと〉では、七月一五日、「徹底検証!ナルヒト天皇制」を準備している。みんなで徹底検証だ!
(桜井大子)