【学習会報告】大塚英志『感情天皇論』(ちくま新書、二〇一九年)

 大塚英志は〇三年から天皇制を断念すべきと発言しているが、書籍としてはこれが初めてではないかと思う。
 
柳田国男が構想した、自立した投票行動のできる近代的個人を形成する運動としての「公民の民俗学」を受け継いで近代のやり直しを説き続けている大塚は、アキヒトの退位発言を象徴天皇制という公共性の新しい合意形成に参加する一人の個人の発言ととらえ、「国民」の側はアキヒト即位以降天皇制についての思考を怠り、感情で答えただけだとする。それは公民としてふるまおうとする天皇と公民になれない「国民」という図式だ。公民とは責任主体ことで、天皇がいる限り「国民」は責任主体になれない。「私たちが「個人」にならずとも許してくれるあらゆる思考の枠組を悉く放棄しなくては」ならないので「天皇制の断念」が必要と結論する。
 
彼の問題意識はここまでである。大塚英志には君主制・身分制の問題、差別の問題がまるで見えていないのだ。だから「天皇家バチカン化計画」という錯誤が出てくる。天皇を日本国の外部にしても僕たちは大塚のいう公民にはなれない。断念とは廃止であるべきだ。自身がかつて書いた「少女たちの「かわいい」天皇」を否定までしておきながら、大塚がなぜここで論理を徹底化せず、民俗学的なというかまんが的なというか、妙な飛躍をして逃げてしまうのかといえば、彼が天皇たちにずっと親愛の情を持ち続けているからだ。大塚は天皇と対等な人間同士の関係を結びたいのだろう。この国のナショナリズムを批判し続け、国家の誇りを自身のそれと重ね合わせるあり方を唾棄し続けているというのになんという矛盾か。 

本書の大部分は以上の内容を補強する(はずの)文芸批評に費やされており、天皇制断念論そのものは序章と終章で展開されている。僕は文芸批評も面白く読んだが、大塚の分析枠はかなり偏っていて議論が自閉している印象が強いとの指摘が複数あった。
 
次回は、島薗進『神聖天皇のゆくえ:近代日本社会の基軸』(筑摩書房)を読む。

(加藤匡通)