初代宮内庁長官の田島道治による昭和天皇「拝謁記」がNHKをはじめとするメディアによって取り上げられ、話題となっている。「昭和天皇実録」では「田島道治日記」しか記されておらず、この「拝謁記」じたいの全公開が必要なのは当然のことだが、これら報道において中心的なテーマとなっているのは、裕仁が「戦争への悔恨」をもち、サンフランシスコ条約発効後の五二年五月三日の「独立記念」式典においてこれを「披露」してみせようとしたが、「臣茂」こと吉田茂らの政府によりその一節が削除された、ということだ。その理由は開戦の「責任」を問われかねないから、というのである。報道の多くは裕仁があたかも自身の「責任」を感じていたかのような主旨でまとめられている。
しかしそれは虚構に満ちている。このとき同時に日米安保条約が発効し、五月一日には皇居前広場において再軍備反対運動を抑圧する「血のメーデー」の大弾圧があった。むしろいまこそ問うべきことは、この時期もそののちも、天皇の責任を明確にすることが全きタブーとなっているということだ。裕仁自身も七五年一〇月三一日の記者会見でその責任について問われ「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりません」とした。「上皇」明仁も歴代天皇の戦争責任について語らず、だから徳仁もこれについて語ることはないだろう。
侵略責任や戦争責任をはじめとした歴史問題について、天皇による謝罪を求めるという発言や要求については、天皇やその国家により生命や人権を蹂躙された人々においては当然であるし、また「戦後」の歴史を生きる私たちにおいても、まさに当然のことだ。しかし、天皇が「責任」をクチに出し「謝罪」の「おことば」を発したとしても、それをありがたく「賜る」ことがありえないのも、同じくまさに当然のことだ。歴史への責任をとるということは、これらの歴史をうけつぎ、批判するべきところを批判し続けることをおいてない。だから私たちは、天皇制をなくすことをこそ自らの責任として認識しているのだ。
(蝙蝠)