【学習会報告】尾高朝雄『国民主権と天皇制』 (講談社学術文庫 二〇一九年)

 宮澤俊義との論争の発端となったこの書において、尾高は「国民の総意」(一般意志)と「個々の国民」の意志の総計は異なったものである、とルソーを援用して言う。「国家そのものの存立の根拠となつている国民全体の意志」であるところの「国民の総意」とは、「すべての権力意志の上にあつて、すべての現実の政治を規正するところの、『常に正しい立法意志の理念』に他ならない」。

 したがって、日本国憲法における国民主権の原理とは、「法の客観的な理念」という近似値的にしか実現し得ないそれを不断に志向し続ける責任概念であると言う(むしろ個々の具体的な国民は「権力に服従する臣民」だ)。これが「ノモスの主権」である。

 では、「法の正しさを決定する法の理念」とも言い換えられる、その理念の基準とはなんなのか? 尾高は言う、平等の福祉である、と。かかる権力の上位に存するものこそ、ノモスである。

 いっぽう、ノモスとは時代によって形を変えつつも、しかし連続性が確認されなければならない。そこで導入されるのが「全体性」という鍵概念である(これは和辻の尊皇論からだ)。ここにおいて国家史、あるいは国民史を担保するための「あらゆる変化にかかわらざる国家の自己同一性」、つまり「全体性」を具現化して国民の一体性を象徴する君主制が要請されるのだ。象徴天皇制とは、責任概念としての国民主権主義を成り立たせる「上層建築」としての君主制なのである。特殊利害の産物としての法律等を「全体性」の象徴である君主が国事行為として公布することで国民という一体性へと収斂させ、一般利害として偽装させる。かくして、かかる「象徴的地位」に基づいて─解説によれば─尾高の畏友・清宮四郎は「象徴としての行為」を定位し、それが現在の象徴天皇制解釈へとつながってゆく。そう、社会に対する象徴天皇の主体性が発動され、それが期待される情勢は、尾高の勝利を示しているということだ(尾高によれば天皇に象徴される理念は国民自らのものだと自覚しなければならない)。

 学習会では尾高の思想は上杉慎吉とかなり連続性があるといった指摘や、宮澤の反駁は結局のところ法学における形式論理を徹底的に突いたものであって核心的な論争はお互いに回避してしまったのではないか、といった意見が出た。

 次回は河西秀哉の『皇居の近現代史』を一一月一九日に読む。   
(羽黒仁史)