湯浅欽史さんが去年11月23日に84年の生涯を終えたという連絡は、かつての小さな読書会「技術論研」のメンバーから来た。その集まりが、私と湯浅さんの酒をまじえた出会いの場であった。その会場は、反天連のスタートの空間でもあった「高円寺ボックス」。会のネーミングはいつだったか忘れてしまったが、戸坂潤をとりまとめて読み続けていた70年代後半、早大の理工系の大学院生らとのほんの数人の読書会からそれは始まった。戸坂ら「唯物論研究会」の「科学技術論」と新左翼にも強い影響を与えた武谷三男らの技術論とを比較検討し、熱心に論議していた。都立大の造反教官だった、「たまごの会」で活動していた湯浅さんらのそこへの参加は、「理論」研究の場からリアルな科学・技術論の検証の場にそこを転換させる契機となった。反原発・反コンピュータのテキストをあれこれ読み漁り、討論する時間が何年も続いた。
長く没交渉になっていた湯浅さんと再会させたのは〈3・11〉原発震災であった。私は病身を引きずって反原発運動にも突入し、その渦の中で原子力資料情報室を手伝っていた、すでに心臓手術後の彼と、また交流しだした。今度は酒ナシでゆっくりと。私がかんでいる「再稼働阻止ネットワーク」のニュースの制作を彼は死の直前まで積極的に手伝ってくれていた。雑務をとてつもなく律儀に、楽しげにこなす人であった。原理的エコロジストなのに、タバコと車(それもスピード運転)が大好きといった、奇妙に分裂的人生をニコニコ生きた不思議な人でもあった。
ただ〈あの時代〉から「全共闘」の問いに答えるべく〈思想と行動〉の人生を生き、土木工学の専門研究はやめ、専門論文はまったく書かなかった人であったこと。私はこの点を忘れるわけにはいかない。
僕は、もう少しガンバレそうです。湯浅さん。
(天野恵一)