新型コロナウイルスの感染拡大とともに、大きな変動が生み出されている。政権が「場当たり的」であるとか、初動の対応のまずさとかが指摘されているが、こうした「災害」に便乗して、権力強化の動きが強まっている。
ウイルスの感染を調べるPCR検査を受けたい人が受けられない問題は国会でも取り上げられた。医師が必要としたにもかかわらず、保健所が検査に応じなかったケースも少なくない。そもそも、検査に保険が適用されないままできたという問題もあった。
安倍政権が検査に一貫して消極的なのは、検査の結果、感染者の多さが明らかになることによって、2020東京オリンピックの開催が危うくなることを懸念してのことだと言われている。全くもってその通りだろう。そもそもオリンピック招致における「アンダーコントロール」発言からして、安倍らにとって民衆の健康や生活などということにたいして、本質的には何の関心も持っていないことは明らかだ。今回も、コントロール下にあるのは真実を示す情報の方である。
感染が広がり社会的な不安も広がる中で、安倍は突如として全国の学校の休校を「要請」した。中韓をターゲットに、ヘイトというしかない入国制限措置を発表した。そして「新型インフルエンザ等対策特別措置法」を改正したうえで、緊急事態宣言を出すことが検討されはじめた。特措法の条文によれば、これによって都道府県知事は、「生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないこと」を期間と区域を決めて住民に要請できるし、同じく学校、社会福祉施設、興行場(映画、演劇、音楽、スポーツ、演芸などの施設)の管理者に対し、施設の使用制限もしくは停止を要請できる。また、イベントの主催者にイベント開催の制限もしくは停止を要請できる、とある。ほかにも、臨時医療施設のための土地使用や物資の売渡しの要請、物価統制までが可能になる。
「要請することができる」といっても、それは実質的な強制だろうし、過剰な同調圧力が日常化しているこの社会において、行政の忖度や住民の相互監視が強まることは容易に想像できる。権力者にとって、感染症の問題とは常に社会防衛・治安管理の問題として位置付けられてきた。今回の特措法改正=非常事態宣言も、自民党が憲法への導入を狙ってきた「緊急事態条項」の先取りにほかならない。ただでさえ、安倍の「独走」が目立つ。これ以上、彼らのやりたいようにやらせておいていいのか。できるところから反対の声を大きくしていかなければならない。
この間、運動関係でも多くの集会が中止となっている。私たちに近いところでも、集会会場が閉館することを決めた結果、急遽集会の中止に追い込まれる事態があった。もちろん、主催者がリスクを考え、熟考のうえそのような選択をしたのであればよいが、それが行政権力によって一律に中止させられるとすれば、表現・言論の自由、権力批判の自由に対する重大な侵犯であることは明らかだ。
権力の側のイベント中止もあいついでいる。二月二三日の新天皇誕生日の一般参賀の中止に続いて、三月一一日の東日本大震災追悼式の中止も決まった。習近平来日・天皇会談も延期だ。このような、天皇・皇族イベントも含めて中止となるについては、やはり感染拡大を阻止して、オリンピックだけはなんとか実現したいという彼らの願望があるだろう。
こうしたなかでも、天皇一族はまだこの件について正面切って発言をしてはいない。徳仁も天皇誕生日記者会見で、「罹患した方々と御家族にお見舞いを申し上げます。それとともに,罹患した方々の治療や感染の拡大の防止に尽力されている方々の御労苦に深く思いを致します。感染の拡大ができるだけ早期に収まることを願っております」と述べただけだ。しかし、今後の患者拡大状況によっては、必然的に天皇の果たす役割が引き出されてくるはずである。
それはおそらく、二〇一一年三月一六日のビデオメッセージにおいて明仁が述べたように、未曾有の「国難」に対しては、心を一つにして「国民」的に対処していかなければならないというメッセージであろう。「国論」が分裂する危機が生じたときに、それを「上から」弥縫し、観念的・心情的に一つになることで矛盾の解消を図っていくことこそ天皇制の役割である。そのようにして実現される「国民統合」とは、まさに異論を封殺していく政治的暴力だ。新天皇徳仁もまた、そのような役割を果たすことを、象徴天皇の「つとめ」として自覚しているに違いないのだ。
(北野誉)