五月二五日、「緊急事態宣言」は全国解除されたが、東京では増減を繰り返す感染者数や外出自粛要請など相変わらずだし、社会的弱者への打撃はこれからさらに過酷なものとなるだろう。自分たちの損得やメンツしか頭にない者たちによる政治は、人々の生活・生存権をとことん追い詰めつつあるのだ。
そのような状況にあって、天皇の「お言葉」を待つ言論は少なくない。どれだけの人が本当に待っているかといえば、それどころではないというのが大半のはずだ。しかしメディアは、天皇・皇后がこのコロナ状況下でなんからの動きを見せることを期待し、期待通りでないことに不安や焦りを示し始めている。これらの報道は、天皇一族の言動が苦境下の人々を救い、社会はそれを願っているといった空気を作りだすだろう。
もちろん私たちも、天皇たちがどう動くのかについて無関心ではない。人の不幸の上で生き生きと活動するのが天皇たちであり、そこに存在価値を見出す社会であれば、今はその「慈愛」の天皇を売り出す「絶好のチャンス」だ。それをありがたがる人ばかりではないが、それができていないことへの不安と心配をメディアは作り出している。実際、天皇たちは大きく動くことはできずにいる。そのことについてはすでに本紙でも言及されている。だからここでは、メディアがその事態を懸念してみせていることの問題を指摘するにとどめる。
「お言葉は、メッセージは、文書は、なぜ出ないのか」と、一大事のごとく問い、その事情を忖度しては読者に伝える。また、コロナ状況下で天皇たちのイベントも「自粛」となり、露出度が激減していることを心配する。それがどうした、どうでもいいではないか、とは決して思わせてはならないのだ。倒産、閉店、解雇、食費・光熱費・家賃が払えない、といった声があふれる中で、天皇の一言を待つ……。そのこと自体、ただただこの国の政治の貧困を示しているだけである。そして天皇(制)とはその貧困な政治の一部であり、その時々の政権に、現在であれば安倍政権に付随し、政策を別の次元で補佐するだけの権威的存在でしかない。その天皇の不作為をエクスキューズをするメディアは、天皇制を領導し、作りだす側に立っているのだ。メディアが作りだす言論に要注意だ。
メディアは、もう一つの天皇に関する「心配事」、「皇位継承問題」でも少々盛り上がりを見せている。政府は「立皇嗣の礼」以降に検討を始めると語っていたが、その「立皇嗣の礼」を延期し、相変わらず「男系男子」を原則とするという。これらについて、週刊誌も新聞もそれぞれの立場で取り上げている。たとえば『東京新聞』は五月一七日から七回にわたり「代替わり考 皇位の安定継承」という連載を組み、「男系男子」派、「長子主義」派、「女性・女系」容認派等々の論者にそれぞれ語らせた。
目新しいものがあるわけではないが、「リベラル」で一定の評価を得ている『東京新聞』紙上で、「男系男子主義」の旧宮家の復帰やその子孫との養子縁組やらが堂々主張されては気分も暗くなる。さらに気持ちを暗くするのは、記事の全てに共通している「皇室の存亡がかかっている」といった、天皇制存続絶対の意識だ。また、この連載のどこで女性論者がでてくるのだろう、いつ「皇室内の男女平等と、それに伴う社会的な影響への期待」といった論が登場するだろうと、これまた暗い気持ちで読んでいた。しかし最後まで登場しなかった。それを代弁するかのような「長子主義」論を、最後の回で君塚直隆が展開しているだけだ。
『東京新聞』が端から女性論者を除外するとは考えられない。では、女性たちはなぜ登場しなかったのだろうか。とても興味深い現象だ。依頼された女性たちには「女性・女系天皇」容認で変わるだろうこの社会への展望が見出せなかったということか。あるいは書かれた原稿がボツにされたか……。これからその理由が見えてくるのだろうか。このひどい状況下にあって、小さな楽しみが出来たのかもしれない。
私たちはいま8・15に向かって準備に入った。どのような苦境下でも社会は動く。私たちもめげずにいこう。
(桜井大子)