【今月のAlert】天皇代替わりへの取り組みを開始する11月行動に向けた議論を!

裕仁の代替わりに向けた動きがようやく鮮明になってきた八〇年代の初めに、私たちを含む反天皇制運動の流れが、少しずつ形をとり始めた。昭和天皇の戦争責任を批判し、日本国家の歴史を厳しく問う声も、それを根源的に問題とする政治的な闘争も実証的な論理も、メディアなどで表面化されることは切れぎれながら、ずっと持続されてきたのだから、あまりに遅すぎる取り組みではあった。しかし、政府による裕仁の在位六〇年のイベントへの批判があり、さらにその翌年の裕仁の重病発覚とXデーの過程で、「昭和史」がどのようなものであったかが、あらためて多くの人々にとって意識され、天皇制の歴史を文化や日常意識までも重ねながら批判していくことが、あたりまえの前提となりうるきっかけを、それぞれが掴んでいったのだ。

八九年の明仁への代替わり以降、「慈愛」や「祈り」をたれる「聖家族」としての天皇一族の演出はより強化されている。
そのなかで、政治家はもちろん多くの法学者も歴史家も、明仁らに対する批判を抑制し、存在や「人格」の賛美にまで踏み込むことが頻りとなった。
帝国憲法や勅語で人にくびきをかける「國體」による支配から、無意識な翼賛へと社会全体が大きく舵をとっているように見える。

明仁の「平成」は、八〇年代末からの世界的な歴史変動と、日本国内における経済破綻と衰退、地震や原発事故などの大規模な災害を経てきた。いわゆる「国民意識」なるものがあるとして、それは生まれ育ちや階層による既得権益を至上のものとしたり、民族などへの差別排外主義をその存立根拠とする必然性など、こうした変化の中でもまったくなかったはずだ。しかし、この時期には、国家の新自由主義などの政策とともに、そのような志向が社会全体に行き渡り、社会の軍事化や歴史修正主義の影響もまた、この時代にはくっきりと刻印されている。

昨年の明仁による「メッセージ」以来、ようやくこの時代を理論面から焦点化する動きが少しずつ現れ始めている。近刊の「平成の天皇制とは何か」(吉田裕・瀬畑源・河西秀哉編、岩波書店)などもその一つだ。その中では、例えば「明仁天皇は『接見』という一見非政治的にみえる公的行為を通じて政府の政策を支持するメッセージを発している」(吉田裕)など、当然の指摘が、それにしてはあまりにもおずおずと複数の論者から提示されている。これは裕仁や明仁天皇の「権威」と政治権力の行使すら、私たちの闘いがまだきちんと指弾しきれていないということの反映でもある。しかし、だからこそ、天皇代替わりの日程や事象がどのように展開するかということへの分析も含め、対抗的な内容を、運動の側から至急に具体化させていかなければならないと感じる。

今年の夏は、八月十一日の集会、例年の八月十五日の反靖国行動で一段落した。今回もまた、悪天候にもかかわらず熱い共闘体制を組み立てることができた。しかし、核やミサイルといった朝鮮半島の軍事的緊張を追い風として、いったんは大きく揺らいだ安倍政権による一極支配が救われ、改憲策動をはじめとする攻撃が、この秋からは早くも具体化していきそうだ。

これに秋篠宮眞子の婚約〜婚姻や、「明治一五〇年」、東京五輪などというイベントが絡み合って、天皇の代替わり過程が、天皇制の権力拡大や「国民意識」の再編として進行させられようとしている。これらは、いかにハレのイベントとして扱われていようとも、世界的に広がるレイシズムや暴力、戦争の危機とともにあるということを、私たちは知っている。一一月には、天皇代替わりと反天皇制のネットワークの構築に向けて、集会を準備開始している。大きな注目を呼びかけたい。

(蝙蝠)