目の前のゴミがなくなっただけで、自分が手を下さないのに、あたかも掃除が終わったような気分になる。ゴミの山に埋もれていると、そんな錯覚に囚われがちだ。安倍が再び政権を投げ出したという報道が流れたとき、じつに清々した思いになって、金輪際みたくなかったその顔が半泣きになっている記者会見のテレビ中継までつきあってしまった。しかし、その内容はというと、もちろん、七年八カ月余りの第二次内閣のみならず、長期にわたる与党のあらゆる政治支配を居直るに過ぎず、報道は、「難病」により「ココロザシなかば」でという美談もどきに仕立て上げられていて、不快感をいやますものだった。
この政権では、大きな批判を無視して暴力的に突破した「特定秘密保護法」「安全保障関連法」「共謀罪」、またTPPや労働法、カジノなど、多数の法律の国会強行採決のみならず、「集団的自衛権行使」の解釈改憲、「公文書の破棄・隠蔽・改竄」、政権周辺の贈収賄や縁故利害などの腐敗など、あらゆるものをもみ消すための閣議決定の濫発がなされた。さらに、二度にわたる消費増税、官僚人事の私物化、特定企業との癒着やメディア支配、中国・韓国・朝鮮へのヘイトの拡大とアメリカへの拝跪など、この安倍政権下における負の歴史はあまりにも大きい。そして、その構造をそのままに温存し推進させるための次期政権も、本紙の発行のころには、密室での談合から発表へと現実化しているのだろう。安倍政権の下での憲法改悪こそどうやら潰えたものの、議会の構成には何の変化もないわけで、なお危機状況は続いている。
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今年の八月一五日は、先月末からの新型コロナウイルス感染の全国的拡大により、全国戦没者追悼式の開催も、靖国ウヨクの動きも、大きく抑制されたものとなった。そして、こちらは残念なことだが、会場の制約から、私たちの集会や行動も制約されたものとせざるを得なかった。そのような中で、四人もの閣僚により、四年ぶりの靖国参拝がなされた。また、安倍は今年もまた玉串料を「奉納」してみせた。
このときはまだ今回の安倍による政権投げ出しの二週間前の段階ではあるが、それでも内部では次期をにらんだ動きが胎動していたのかもしれない。思い起こすと、安倍が靖国参拝を行なったのは、「特定秘密保護法」強行採決直後の二〇一三年一二月のことだ。いま、「敵基地攻撃論」の具体化も検討されている。この種の連中が「戦争神社」靖国参拝や、神道などかつての「国体」に依拠するかのごときふるまいに及ぶのは、まさにそういう状況を背景にしているからに他ならないと感じる。その意味で、「安倍以後」の体制をめぐり、今後はさらに極右・国家主義的な事態も、拡大していく可能性が強い。
天皇や皇室らは、この「コロナ状況」で各種の式典など天皇・皇族行事が減って、発言機会をなくすとともに、その存在感も昨年と比べると大幅にうすれたものとなっている。そのことは、皇室メディアやその周辺からも指摘されているが、もちろんそのままに止まるものではなく、前号でもふれたように、むしろ「ご進講」は活発化しているともいわれている。式典などの公的な場を持つことができないまま、そのような「ご進講」での発言がメディアには流されてきたが、今回の「全国戦没者追悼式」では、徳仁は初めて「新型コロナウイルス感染症の感染拡大により新たな苦難に直面」「私たち皆が手を共に携えてこの困難な状況を乗り越え」「人々の幸せと平和を希求し続けていくこと」を願うという「おことば」を述べた。こうした発言もまた、コロナ状況をきっかけに露呈している貧困化の拡大や、それに伴う国内政治の流動化、対外的には民族差別・対立の先鋭化などの状況をふまえた、天皇制の側からの危機意識のあらわれと見える。しかしそれは排他主義を強める方向に向かうしかない。
トランプ不利の前評判も少しずつ沈静化して、アメリカ大統領選挙のゆくえはまだ読めないが、中国や朝鮮による「危機」を煽りたて、軍拡と国家への求心力を策する政治手法は、共和・民主のいずれが政権をとっても、今後も続くだろう。あたりまえの思想や論理ではありえないような憎悪は、コロナ状況など不安や恐怖の下で手に負えないほど大きくなっていく。ネットなどでは、天皇や皇室のみならず安倍ごとき政治家への批判にも「不敬」とする攻撃が横行している。あらためて、私たちをとりまく酷い事態を認識しなおし、必要な作業に取り組まなければなるまい。
(蝙蝠)