著者がここで扱っている論点として、はじめに選んでいるのは「靖国神社、千鳥ヶ淵」「広島、長崎」「沖縄・摩文仁」だ。戦後史の経過で、これらをめぐる政治的にもきわめて重要な論点を、目配りよく整理している。続けて映画などの表現をも引きつつ、受け入れがたい「記憶」がソフィスティケートされていく経過を追い、さらに、これらが「現代化」「脱歴史化」されて「継承」されていることの問題を取り上げる。
叙述には、資料を渉猟していることもうかがえて、いまなお現代史においても思想史においても重要な、「戦争の記憶」を考えるための論点が数多く提出されている本だ。参加者のいずれも読後の評価はおおむね高いものであり、本書がまとめられた後に起きた現在的な「コロナと政治・社会」の問題について、別途に「付記」を入れたジャーナリスティックな問題意識も好感の持てるものだった。
議論の中で話題となったのは、これだけの整理をしてみせた一九六九年生まれの著者がまさに学生時代に出会ったはずの、裕仁の死と代替わりという戦後史上の大きな変化を、どのように認識したかについて叙述でまったく避けていることの「奇妙さ」だ。
橋川文三、安田武や鶴見俊輔の天皇体験と天皇への(好意的)評価については触れられず、この問題について厳しく問い続けた平井啓之の論もないのはなぜか。靖国をめぐるテーマなら、加藤典洋や高橋哲哉の論について、同時代的には触れるところではないのか。エピローグでは、九〇年代以降の議論を「実証史学」の観点から「図式」「予断」が先行していると、やや裁断してみせている。それがまったく当たらないわけではないだろうが、逆にいうと、これらの議論に踏み込まないのは、分析への方法論に欠けるところがあるからではないかとも思わせるのだ。著者が、他の仕事では戦後史の中の大衆的な「教養」「文化」を扱いながら、自分史的にもなりうる議論を避けるのは、自身の「断絶」「無難」さへの志向があるのではないか。
次回は、一一月一七日、山田朗『日本の戦争3 天皇と戦争責任』(新日本出版社)を読む。
(蝙蝠)