【巻頭コラム】

 本紙最終号を迎え、天皇制というやつは一体全体この社会にとって何なのだろうと、あらためて思うのだった。それは支配者の側の、ではなく、多くの人々にとって。

 反天皇制の運動の、そこはかなめなのだとも思うが、運動の立論の多くは、支配の側にある天皇(制)分析であったように思う。反天連はそれらを明らかにし、伝えていくことで、社会悪としての天皇制を暴き出してもきた。そのことによって、多くの人々にとっての天皇・天皇制も見えてくるはずでもあった。だけど、天皇制反対の声は30年前よりも大きくなっているかといえば逆だ。心穏やかではないままに最終号だ。

 天皇も天皇制も、微妙に、あるいはドラスティックに進化しながら、この社会を下から上から押さえ込んでいる。この社会体制を「支えている」のだ。しかし、この社会の生き難さや理不尽さへの反発は、天皇や天皇制へとは向かわない。まったくうまくできたシステムだ。

 手足を縛られる者に見えるのは、目の前の小さな権力者だ。苦境を強いられれば強いられるほど、その小さな権力者だけが見えてくる。その上にいる少し大きな権力者、ましてやそのトップにある者との繋がりを手繰り寄せるのは難しい。小さな権力者が君臨する、家や学校、職場や組織、地域。人がそれぞれに生きる現場と、その小さな社会を動かすシステム、そしてそのシステムを操る力をもつ者たち。そこにはたくさんの天皇制との接点があるのだが、なんとも見えづらい。

 それでも私たちは、書物から小さなリーフレットから、あるいは文京区民センター等の公共施設や公園、街頭や飲み屋、はたまた芝居小屋や音楽シーン等々で、そういった接点を共有してもきた。そのなかに本紙も加わっていたなら嬉しい。「伝える」にはさまざまな形がある。運動にも。諦めず生きていきたい。みなさまもお元気で。そしてこれからも、ともに。

(桜井大子)