【追悼文】追悼・上原成信さん

沖縄・一坪反戦地主会・関東ブロック」の代表的存在で運動の〝顔〞といった存在であり続けた上原成信さんが、一九四四年(一月)以来住み続けた「ヤマト」の生活を切りあげ沖縄へ帰ったのは、おそらく二〇一四年のことだったと思う。

成信さん亡くなる、の悲報が届いた時(一〇月二六日、亡くなったのは二五日)、私がすぐ思い出したのは、東中野の沖縄料理店での送別会でのやりとりだった。この時、闘病中でフラフラする足取りで、やっとそこに参加できた私を迎え、成信さんは、本当に嬉しそうに「そんな状態で、良く来てくれた」とひどく率直に喜んでくれたのである。

この時、成信さんは、九〇歳に近づいている自分は、でも沖縄での座り込み行動に参加し続けるという決意表明をして、すこぶる元気だった(事実、帰ってからそのように闘い続けていることは伝えられていた)。「沖縄の反基地行動でまた会いましょう」。この約束は、けっきょく、果たせなかった。沖縄まで行って激しい行動に参加できる状態には、私の病いの体は回復しないままであったからだ。そのことの残念さが、まず胸をついた。

ここで「ひどく率直に」と書いたのには理由がある。私と上原さんとの交流が始まったのは一九八七年に、私と同世代で当時三九歳の知花昌一さんが沖縄読谷村の国体会場(ソフトボール大会)に掲げられた「日の丸」を焼いて抗議した行動への刑事弾圧。この裁判の長い救援活動を通してであった。ヤマトで生活し続けてきたとはいえ、いやそれだからこそなのかもしれないが、成信さんの〈ウチナンチュー・アイデンティティー〉は強烈なものであった。その強烈さがしょうしょう苦手であった私。それが原因であろうと思うが成信さんは、いつも私に、皮肉な言葉を投げ続けてきた。例えば、こんな具合に。

よくあったことだが、私たちの集会でのアピールをお願いすると、彼は「君の頼みは二回に一度はチャンと引き受けないわけにはいかないからな」という言葉が、なんどもかえってきた。実際のところは、お願いさえすればほぼ毎度来てキチンとアッピールしてくれていたにもかかわらずである。他の活動がいそがしすぎて、沖縄現地の裁判所に足をはこぶことの少なかった私に、毎回キチンと傍聴に出かけていた上原さんの方はイライラしていたのかもしれない。だから、「日の丸」裁判の後に私が基地問題をめぐる闘いに合流すべく、自分でも信じられないぐらいの頻度で沖縄にかよい続けた時などは、貧乏人の私の交通費などを心配し、私の古書店に本を大量にカンパとして、プレゼントしてくれた時もあったのだ(そういう、やさしい人でもあった)。

私は「知花裁判」のニュースの発送なども、ともにするために、よくうかがっていた成信さんの中野のマンションの一部屋から本をはこび出し、大きな台車に大量につみあげて、早稲田通りをエッチラオッチラ運んだ時のことをよく憶えている。渡された本の中に『暮らしの手帖』が何年分もキチンと揃っていたこと(それをなんとなく成信さんらしい本だなと思ったこと)も、鮮明に記憶している。

もう一点だけ書いておきたい。私は上原さんに、天皇(制)についてどう思うかと正面から質問したことが一度だけある。成信さんは、「関心持たなかったネー、私たち沖縄の人間にとっては『強制』された嫌なものだったけどネェー」というような答えだった。それは、あなた方ヤマトの人にとっては当然にも重大な問題なんだろうが、ウチナンチューにとっては外から強制された「飾りもの」だよ、という調子で。

この回答にも沖縄人のプライドがにじんでいた。その時は、そのプライドにはねつけられてしまったままだったが、次は、もう少しその心情の内側に入りこんだ討論をと思った。しかし、その機会は永遠に失われてしまった……。

私は闘病を持続し、成信さんの故郷の反基地闘争に合流するための沖縄行きをあきらめまい。今、そう決意する。成信さんは亡くなっても沖縄の地に、まちがいなく生き続けているのだから。

(天野恵一)