【学習会報告】平井啓之『ある戦後:わだつみ大学教師の四十年』(筑摩書房、一九八三年)

平井啓之『ある戦後:わだつみ大学教師の四十年』は一九八三年一二月に筑摩書房から刊行された。

私は刊行された直後に、『日本読書新聞』に書評を書いている。それは、「反天連」づくりがスタートしている時点であり、そこに収められている天皇制(というよりヒロヒト天皇)批判の鋭い言葉に強烈に共感した。そして、その書評も一つの契機となり、著者とのかなり親密な交流が、さらに平井さんの長い活動の場所であった「わだつみ会」との「昭和天皇代替わり」の状況下での、ささやかな交流がうみだされていった。〈天皇(制)の戦争責任・戦後責任〉という、反天皇制運動の普遍的なテーマ。それを戦後の象徴天皇制下で自分たちの問題として私たちが深く自覚していくプロセスと、その交流は重なっていた。

「平成天皇代替わり」状況下の今、この本をテキストとして再読したのは、一つは、この間この学習会で一貫して問題にしている天皇の「人間宣言」なるものを、どう読むかが頭にあってのこと。

アキヒトの「生前退位希望のメッセージ」をマスコミは第二の「人間宣言」として、持ちあげ続けた。しかし、大日本帝国憲法下、「現人神」の主権者を自称していたヒロヒト天皇が、敗戦後、占領下で、自分の「神格」性を否定し、「象徴」におさまるために発した「人間宣言」。それがそう呼ばれた理由は、表面的には理解できるが、はじめから「象徴= 人間」天皇としてスタートしているはずのアキヒト天皇が、新たに「人間宣言」というのは、いかにも奇妙。これは、ヒロヒト天皇の「人間宣言」なるものが、実はどういう政治的ペテンと欺瞞の産物であったかをこそあらためてグロテスクに表現しているのではないか。天皇を「人間」と視ようとすれば「人間」と視え、「神」として視ようとすれば「神」であるという日本の民衆の〈自己欺瞞の意識〉にメスを入れて、この〈人間宣言〉をスンナリ受け入れた無責任と欺瞞との民衆意識を問いなおす平井の問いは、この状況下でこそ生きている。
渡辺清の天皇ヒロヒトへの怒りへの深い共感をこめた論文を含めて、平井の天皇制批判を、あらためてこの状況下で読みなおせてよかった。

ヒロヒト天皇個人への「古くさい」怒りの論文は、この「新しい」状況下で、まったく「古く」なっていない。

次回は八月二九日、テキストは茶谷誠一著『象徴天皇制の成立』(NHKブックス)

(天野恵一)