天皇制というものが、日本人にとって無条件の「信仰」= 一種の「天皇教」ともいうべき存在でもあるにも関わらず、そのような捉え方が社会的にはほとんどなされていないこと。この問題の大きさを、反天皇制運動にどう接合することができるかということを考えることが多い。そういう問題意識にある程度応える本だ。
読後感はかなりよかった。日本人にとって、宗教、あるいは無宗教であることに対する世間的無関心があるのに、天皇に対する宗教的崇拝だけは、敗戦後から現代にいたるまで一貫して衰えることがない。実は、この無宗教天皇崇拝も日本の「自然宗教」に根を持っている。日本人の多くが自然宗教の信者である--そう断言する阿満の議論は、なにより象徴天皇制を問題にする私たちの実感に、きわめてフィットするものである。
この間の学習会と連続するのが、第2章「人間宣言-日本人と天皇」。表紙にも使われている一九四七年一二月七日のヒロヒトの「広島巡幸」において、敗戦と「人間宣言」にも関わらず、「神」であろうが「人間」であろうが天皇にひれ伏す民衆感情の根にあるものは何かと問う。阿満は、そこで日常世界の延長線上に非日常的な存在を保持しておきたいという民衆の現世主義的な願望をさぐり、戦後における無責任体制をも根拠づけていく。
この、自然宗教(= 自然発生的な宗教)の対概念としてとらえられているのが創唱宗教で、以後の章は、民俗学や仏教史を駆使し、法然・親鸞らの創唱宗教としての仏教が自然宗教によっていかに解体されていったか(教団自体の制度化も含めて)が論じられている。
論点としては、自然宗教という視点は、象徴天皇制のあり方を捉える上でヒントになる。他方、戦前の天皇制を支えた国家神道は、創唱宗教にカテゴライズしてよいのではないか? 天皇制における自然宗教/創唱宗教の二重性があり、人間宣言は、近代天皇制の「自然宗教」への「撤退」ともいえるのではないか。阿満も、非教団的仏教者(?)という自らの立場から、宿命論を超える道筋を提示しているが、われわれとしてはそれはどうありうるか。創唱宗教と普遍宗教との対比で、概念規定がよくみえないところがある。丸山真男らの「オーソドックス」な思想史整理の方法に制約されている部分がありはしないか(たとえばその福沢諭吉理解)。民俗学的な語りのなかに存在する歴史的超然性にたいしては、批判的であるべきではないか、など活発な議論になった。
次回は七月二五日(火)。テキストは平井啓之『ある戦後:わだつみ大学教師の四十年』(筑摩書房、一九八三年)。
(北野誉)