【学習会報告】T・フジタニ『天皇のページェント』(NHKブックス、一九九四年)

前回のテキストは不評だったが、今回はとても面白く読んだという感想で一致した。

本書のテーマは、「近代日本のナショナリズムが誕生するうえで公的な国家儀礼が果たした役割を再確認」することにある。この本では、近代日本の国家の儀礼空間を「ページェント(野外劇、見世物)」として位置づけ、その具体的な展開を追っている。

近代の産物としての「伝統の発明」というのは、すでにおなじみの議論といえるが、近代日本の天皇崇拝も、「あまり知られていなかった天皇を中心とする国家の過去を想起させる」ものとして作り出されていった。そのために役立つような「物質的な意味の担い手」= 「記憶の場」が公的儀礼である。

以下、東京という都市も儀礼の中心地として改造されていったこと、近代日本においては「進歩・文明」を体現する都市= 東京と、奥深い「伝統」の担い手ととしての都市= 京都という「二つの首都」が存在し、それが相互補完関係にあったこと(さらにそれは、近代天皇制の二重性とも相即的であったこと)、フーコーの議論をベースとして分析される、儀式を通じてつくりだされた「天皇と群衆」における、視線(まなざし)のポリティクス……など刺激的な論述が続くが、とくに議論になったのは、最後の第5章「『象徴天皇』と電子メディア時代のページェント」だ。

昭和天皇「Xデー」時期の天皇のページェントについてフジタニは「大喪の礼」がテレビ画面にふさわしいかたちで構成されていたこと、連続して映像が流され、「お茶の間というプライバシーの聖域に侵入」してきたこと、その意味では、「政教分離」に関わって政府が強弁した「公私の儀式」の使い分けが意味を持たないこと、覗き見趣味的なテレビ報道によって「皇威/アウラ」は喪失し、「もはや国民は君主のまなざしの従順な対象ではない。むしろ、国民自身が天皇・皇室に向かってその容赦ない視線を向けてゆく主体」となったという議論など、少なくとも当時、私たちにも一部分はそのように見えていた事実を指摘している。メディア環境も大きく変わっているなかで、再びページェントの季節がめぐっている現在の儀礼とメディアによる演出、それが作り出す天皇意識がどのようなものとして考えられるべきかが、私たちの課題である。

次回は四月二四日。テキストは加納実紀代編『女性と天皇制』(思想の科学社)

(北野誉)