天皇主義と国家主義を「国民」に叩き込んでいた明治国家においても、「日の丸」を掲げて騒ぐ風潮が強要されるようになったのは、「帝都」東京ですら少なくとも日清・日露戦争以降であったということを、永井荷風が「花火」の中で苦々しい筆致で叙述している。
徳川末期〜明治の内乱期の死者を「祀る」とされた東京招魂社が、台湾への侵略戦争ののち、対外戦争の死者も「合祀」するとして宗旨転換をなし、靖国神社と改称したのは一八七九年だが、靖国神社が侵略戦争の死者を「祀る」ことをその核心とするのは、おおむね日清・日露戦争以降のことだ。そして、軍人勅諭や教育勅語が徴兵制と教育制度を通じて浸透させられ、神聖不可侵の天皇と軍隊が、内心をも拘束するものとなっていった。
「帝国臣民」がその侵略性と相互監視の抑圧性を決定的に内面化していったのは、幅を短くとってそれから敗戦までの五〇年だが、この時間はヒトにとってどのくらいの長さなのか。東京五輪や日韓闘争、ベトナム反戦や大学闘争の時代から現在までを五〇年と数えると、多少は実感的になるのではないか。天皇制や靖国神社が「伝統」あるものと、多数が妄信するまでの時間は、そんな程度でもある。
四月二八日、安倍靖国参拝違憲訴訟の東京判決がなされた。上は九〇歳代の戦争体験者から、その孫の世代まで、国籍も東アジアの各国からドイツなどに広がった六〇〇名以上の原告団と弁護団により、心うたれる主張が数多く法廷で語られた裁判だった。
これに対して、東京地裁民事六部・岡崎克彦裁判長、田邉実、岩下弘毅裁判官により出された判決は、きわめて悪質なものだった。政教分離、信教の自由、宗教的人格権、思想信条の自由、自由権、人格権、平和的生存権、憲法尊重擁護義務遵守への期待権、在外原告の人格権や、これらに対する憲法判断の必要性について、詳細に述べられた弁論に対して、既存の判例の論拠に踏み込むことなく、外形的な「判例」を単なる「既成事実」として無理強いするものだった。
その悪質さは、しかしまだしも予想の範囲でもあった。真摯な原告団の主張に泥を塗り、私たちの思いを逆なでして怒りに火をつけたのは、原告側が安倍靖国参拝を批判するために甲号証として提出した、安倍による国会答弁・談話や報道を、判決文がべったりと流用し、「これを素直に読んだ者からは、被告安倍が本件参拝によって恒久平和への誓いを立てたものと理解される」と真逆の解釈を示したことだ。あえて侮蔑的な表現をするが、文章もろくに読めず、身内や官僚のフリガナ付きの「作文」を芝居がかった身振りで演じたに過ぎない安倍の、その発言によって、どうして原告たちの個人史と人間性をかけた証言の数々や、学者による重い意見書を否定できるというのか。この判決を弁護団は「安倍忖度判決」として糾弾している。これは、安倍の独裁的な権力行使が、有形無形の圧力により、きわめて歪んだ形で貫徹させられた不正義そのものなのだ。さらにこれは、数々の悪法の国会における強行採決とも、身内の利権拡大にのみ貪婪な安倍らや官僚たちのウラの姿とも、すべて一つながりのものだ。
そのような安倍とその眷属が、経済も理性も著しく衰退している日本社会の中で、米政権と米軍に依存しながら、「ミサイルの恐怖」をメディアで煽りたてる。まだ成立していない「共謀罪」だが、成立後には疑いなく新しい治安維持法として機能することを予期させられる。そして、憲法が自民党草案そのものとして改変される時期も、より早まりそうだ。
天皇代替わりの日程が具体化しつつある。天皇制は、こうした安倍政治にますます密着していくものとして機能するだろう。
昨年一一月二〇日の「天皇制いらないデモ」は、警察と右翼の密接な連係プレイの暴力にさらされたが、現在、六月三日に、これにリベンジするための行動が準備されている。そしてまた、私たちは、この日の行動をきっかけに、天皇制そのものに異議をたたきつける運動を、あらためて構築していきたいと考えている。
もちろん、私たちの力量の限界は心得ているが、だからこそ、全国のさまざまな闘いや、それにかかわる人々の思いを受け止め、これまで弱々しいながらも反天皇制運動を担い続けてきた役割を捉え返し、少しでも広げていきたい。そのために、まずは六月三日と四日の集会の行動に多くの人々が結集してほしいと希う。
(蝙蝠)