今回は標題の本を検討した。著者はのちに最高裁長官をつとめた戦前派の国際法学者。この本は刊行時天皇制への民主主義的立場からの批判の書として知られたものだが、こんにちの眼からは、いま左派知識人を混迷させている戦後天皇制の展開をまったく予想していないことが眼につく。
横田は、神勅主義を根拠とする主権者として統治権を総攬した戦前天皇が、戦後国民の総意による象徴として法的にほとんど無能力者になったことをもって、天皇制は本質的に変わったと言う。人類普遍の原理、近代民主主義への合流がそうさせたのであり、そのなかで「天皇・国民一体」という仮構も天皇の存在自体も、歴史的に過去のものとして衰滅していくと見ていたようだ。天皇の政治的働きが復活しないようにすればそうなるだろうと。
この予想ははずれたわけだが、その点を評者は、横田がもっぱら法的観点から問題を考え、天皇を主権者からはずした憲法の変化がすべてだ、としたところに理由を求めた。 横田は天皇を天皇たらしめてきた歴史的政治的現実、①統治集団の権力的意志、②天皇と結びつく人民の意志・感情、③古来支配集団が国家を構成し、近代に人民が国民になる過程を媒介してきた歴史的事情に、何の考慮も払わない。だから統治集団が主導した「戦後民主主義」に国民を媒介する自分の役割に戦後天皇が気づき、それを自覚的に果たしていくことを、時代的限界は仕方がないとはいえ、まったく予想しなかったのだ。
討論で問題になったことの第一点は、横田は同時代の憲法学者宮沢俊義の「八月革命説」に賛成しており、たしかにこの説から導かれる戦後天皇制の新展開への楽観論は二人に共通しているが、この説の論理を徹底させているのは横田の方であること。第二に「戦後民主化」が米国の軍事占領という形で来たことへの感性的反発が戦後右派天皇主義の思想形成の一契機となったのに、戦後左派はこれを軽視したこと。
次回は丸山邦男『天皇観の戦後史』(白川書院・一九七五年)。五月三〇日一九時。
(伊藤晃)