【学習会報告】丸山邦男『天皇観の戦後史』(白川書院、一九七五年)

二〇一七年五月の読書会では、丸山邦男『天皇観の戦後史』(白川書院、一九七五)が取り上げられた。丸山邦男(一九二〇〜一九九四)は、炭労書記、軍事雑誌『丸』の編集部等を経た、フリージャーナリストで、丸山真男兄弟の末弟。本書は「天皇観の戦後史」、「現代の天皇制」、「二十世紀の天皇神話」、児玉誉士夫との対談の四部構成。一九六〇年代から一九七〇年代前半に書きためられたものである。

刊行された当時は、裕仁天皇の訪米が問題にされていた頃であったが、京都で大学内外の運動に参加していたわたしは、いくつかのグループが展開していた訪米阻止闘争を横から見ていた。現代史を専攻しながらも、現実的運動課題としての天皇制にはほとんど関心はなかったように記憶する。

しかし刊行直後になにかの縁で本書を入手したわたしは、さほどの期待もなしに通読して、論旨の鋭さに驚嘆した。井上清の『天皇の戦争責任』とあわせて、わたしにとって、初期の天皇制読書体験として重要な書物である。

わたしの読み方としては、本書のメインテーマは、いわゆる「人間宣言」で裕仁は現人神から人間になったのかという問いかけである。丸山は、人間からロボットのような神になったと結論する。サブテーマとして、戦後天皇制が資本制の、というよりは、資本家のための天皇制になっていることの指摘、林房雄、清水幾太郎などの言論人に対する批判である。

わたしたちの仲間のなかにも、「人間宣言」のとらえかたについて、微妙な、あるいは大きな違いがある。わたしは「終戦の詔書」に続く第二次天皇制継続宣言と主張しているのだが、「人間宣言」によって少しは民主化されたと肯定的にとらえている友人もいる。丸山は天皇が「『象徴』へと変わっても、かつての天皇制をささえた日本人の論理と心理に、はたしてどれだけの変革が行なわれたのか」と突きつける。

本書のなかに兄・真男の名は出てこないが、戦前の天皇制を「無責任の体系」と片づけてよいのかという一喝は痛快である。また天皇が「戦後の日本社会に統一および安定を与え」たと、清水幾太郎が肯定的に評価していることを批判しているが、丸山邦男なら明仁天皇の言動をどう批判したか、ぜひ尋ねてみたい。

次回は阿満利麿『日本精神史:自然宗教の逆襲』(筑摩書房・二〇一七年)。六月二七日一九時。

(千本秀樹)