天皇制の戦争・戦後責任を問う、反天連の恒例の討論集会。千駄ヶ谷区民会館にて約九〇名が参加した。天皇「代替わり」に向かうこの間の言論状況において、安倍の「戦争政策」と天皇の「平和主義」を対立させ、後者に期待するという言説が「リベラル」の中から大量に生み出されている。そんな中、天皇の「平和主義」の欺瞞を批判することの重要性を確認しつつも、それだけでは不十分ではないかという問題意識から、集会はつくられた。発題者は、反天連の北野誉さん、桜井大子さん、天野恵一さん、そして批評家の平井玄さんの四人。
まず、北野さんは、オーウェルがディストピアを描いた『一九八四年』の「二重思考」や「新語法」が、実は最近の言論状況にとても当てはまるのではないか。
「二重思考」を強いる装置として天皇制が機能しており、それへの批判は、天皇の「平和主義」の内在的な批判としてなされるべき、と提起した。桜井さんは、「良い治世者」像を求める民衆意識や欲望が、今の天皇に投影されているのではないか。憲法逸脱の度合いは大きくなるばかりでありながら、それを飲み込んでしまう象徴天皇制が持つ曖昧さがつくり出す強さを再認識すべきではないか、と語った。天野さんは、天皇が「退位」しても人間になるわけでなく、特権的地位は変わらない事実から、天皇は戦後もずっと現人神と人間の二つの観念を生きていることの欺瞞と偽善をこそ問題にすべき、と論じた。平井さんは、安倍の経済政策は行きづまり、「国家破たん」が先送りされている中、「曖昧な貧乏」として貧困化が進んでいることの現実を凝視する必要がある。資本主義の変容と収縮過程に天皇制がどう適応していくのか見定めつつも、貧困や非正規問題の中から闘いの豊かな可能性があるのではないか、と提起した。
その後の討論では、象徴天皇制自体が民主主義もリベラリズムも何でも入れることができる「国体論」のような使われ方をしているが、その使う側の問題や、天皇・皇后の方が貧困問題には自覚的で、逆に当事者たちが曖昧な気分のまま無自覚であることの問題などが指摘された。
(川合)