一九三一年の満州事変に始まり、アジア・太平洋戦争へと至る戦争が日本人にとって破滅的な事態を招いたのは歴史的事実である。しかし、その戦時はずっと暗い谷間の時代だったとする理解は、果たして正しいのだろうか。著者は、そうした戦時の理解は、戦後になって定着した神話に過ぎない、と指摘する。
日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争直前の一九四〇年は、皇紀二千六百年であるとされ、万世一系の天皇制国家をたたえるさまざまな記念行事が繰り広げられた。帝国臣民は定時に宮城を遥拝し、皇国史を学び、出版社や新聞社の愛国歌・作文の募集に応じ、聖地を訪れ、百貨店の催事を見に出かけた。また、皇室関連の場所や神社を拡張整備、清掃する勤労奉仕もいとわなかった。
こうした大衆参加を促したのは政府だけではない。民間企業も祝典をビジネスチャンスと捉え、消費を促した。戦時のナショナリズムが消費を刺激し、消費主義がまたナショナリズムを煽っていた、そのさまざまな実例はとても興味深い。
帝国全土にわたる消費と観光を支えたのは近代ナショナリズムである。海外同胞も巻きこんで開催された大イベントは、帝国日本の血統による国民形成と統合の試みであったが、うまくいかなかったことも描かれている。
また本書は、一九四〇年を頂点とする大衆消費社会の到来に焦点を当てながら、同時代のドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとよく似た政治体制が日本でも成り立っていた、とする。つまり、生活が制限され、自由もなかった暗い谷間であったとの捉え方と、丸山眞男の、日本には「下からのファシズム」がなく「上からのなし崩し的なファッショ化」が進んだだけ、とする捉え方も批判する。戦時日本の大衆的行動主義を軽視している、と。
議論では、著者が戦時日本もファシズムと把握しようとする整理に対して、ドイツやイタリアでファシズムが成立したのは共産主義革命を潰すための反革命であり、日本にはそうした現実性はなかった事実も見落としてはならない、との指摘がされた。また、ナチスが行った暴虐が明らかにされた戦後においてもなお、「あの時代は良かった」という回想が少なからぬ体験者がいる事実を含め、ナチス・ドイツを研究した池田浩士さんの仕事や、戦時下日本において、家の束縛からの解放感を実感として持って女性たちが戦争協力していった歴史を分析した加納実紀代さんの女性史研究が、先行研究としてあることも指摘された。本書は、戦時日本像を捉え返すだけでなく、現代のファシズムを考えるうえでも、さまざまな材料を与えてくれており、議論は尽きなかった。
次回は、二月二七日(火)。テキストは、『皇紀・万博・オリンピック:皇室ブランドと経済発展』古川隆久(中公新書/一九九八)。
(川合浩二)