101歳の日高六郎さんが亡くなったと連絡を受けた時、98歳で亡くなった、まだそれから1年もたっていないはずの福富節男さんのことも想い出した。私は日高さんと日常的に親しく交流したことはまったくなかった。1987年、沖縄読谷村の国体ソフトボール会場で「日の丸」を燃やして抗議した知花昌一さんの救援会づくりのための最初の大きな集まり(私はこの救援会活動には結果的に長くコミットし続けることになったのだが)、この東京での集まりに、突然参加した彼が、右翼の「世代を結ぶ平和の像」破壊抗議の内容も織り込んだ活動を、と強く提案していた。この時がナマの日高さんにはじめて会った時であったはずだ。
親しく個人的に話を持ったのは2回だけ。1回は、社会党が九条平和主義から大きく後退し政権に近づいていく時代に、岩波書店の『世界』にうまれた、その流れに乗った「平和基本法」構想なるものに批判の講演会に来て話していただいた時(1993年)であり、もう一度は、私が長く参加している「戦後研究会」のメンバーとつくった日高さんの話を聞く集まりの時である。フランスに住んでいた日高さんとの仲介役は、2度とも福富さんだったのである。その時の福富さんは仲介役を超えて、すこぶる積極的に動きまわった。シャシャリ出ることの少ない福富さんの普段にはおめにかかれないハシャギぶりは、おそらく大知識人日高さんが福富さんが最も敬愛する人物であろうことをよく示していた。当時、それが私には少し意外であった。
今年(2018年)は、学生叛乱のピーク(1968年)から50年である。日高さんの発言で、一番強く私の心に残っているのは、1969年1月の東大への機動隊導入の時辞職を決意した彼と、「わが解体」のプロセスを公表しつつ京大を辞職した高橋和巳との1970年(『群像』10月号)の対談(「解体と創造」)であり、その中でも言及されている『朝日ジャーナル』(1970年8月9日・16日合併号)に書かれた「断章・私と大学」である。今、それを読みなおしてみて、他者攻撃性を削ぎ落とした、見事なまでに論理的かつ具体的、明快な自己断罪の主張の力にまた圧倒された。考えてみれば、不当解雇された教員として日大全共闘への加担を持続した福富さんの日高さんへの敬愛の深さは、まったくあたりまえの話であったのだ。
(天野恵一)