【書評】古川佳子『母の憶い、大待宵草─よき人々との出会い』(発行:白澤社、発売:現代書館)

この本に収められたエッセイは、いずれも「反天皇制市民1700ネットワーク」の通信に連載されたものである。この通信は、昭和天皇裕仁の死による前回の代替わり過程のなかで沸き起こった「天皇制はいやだ」の声とともになされた、「即位の礼・大嘗祭」違憲訴訟をベースにした機関紙である。

「即位の礼・大嘗祭」違憲訴訟は、大分、鹿児島、神奈川、東京など各地で取り組まれたのだが、一七〇〇名の原告を集めた大阪での「『即・大』いけん訴訟団」による裁判においては、高裁において原告の控訴は棄却されたものの、「即位の礼・大嘗祭」が神道儀式によりなされたことと、これに国費が執行されたことは違憲の疑いがある、とされ「実質勝訴」(同訴訟団)として終結した。

古川佳子さんは、この訴訟の原告であった。そしてまた、箕面忠魂碑・慰霊祭違憲訴訟でも、神坂玲子さんらとともに原告に立った方でもある。

訴訟の原告になるということ、しかも、勝訴が期待しにくく論理の抽象性も高い違憲訴訟は、ハードルが高いものとして躊躇されがちだ。だが、こうした訴訟の原告になるということは、天皇制に反対していくこと、平和を考え選び取っていくことであり、そして、意思を同じくする他の原告たちとつながっていく機会でもある。

古川さんは一九二七年生まれで、昨年には卒寿を迎えられている。この自伝的なエッセイ集においては、ご両親をはじめとする家族への想いや、これまでの人生でふれあった方々との関係が、淡々とした調子で綴られる。

しかし、古川さんが生きてきた時代は、まさに戦争のただなかにあった時代でもある。彼女の長兄・啓介さんは南方に出征し、台湾でマラリアに罹患、さらにビルマ戦線に送られて四五年五月に二七歳六カ月で亡くなった。また次兄・博さんは満州牡丹江の国境から一時筑波に戻り、その後、輸送船の空母雲龍に乗船してフィリピンに送られる途中、二四歳四カ月で台湾沖に沈んだという。そして、この次兄の所属部隊は「戦死ヤアハレ/兵隊ノ死ヌルヤアハレ」と歌った竹内浩三と同じ部隊であり、乗船した船の違いはあれ、いずれも「ひょんと死ぬるや」の運命をたどったのだった。

さきに「淡々とした」と書いたが、愚かで不正な戦争により早逝させられた肉親への感情が、静かなものであるはずがない。「母の憶い、大待宵草」と題されているのは、古川さんのお母さま、和子さんのエピソードだ。亡くなられるまで、小さな手帳に大切に短歌を書き続けていた和子さんは、周りに誰もいないとき、夕方に花開くオオマツヨイグサの茂みで、声を限りに亡き二人の息子の名を呼んだという。「その秘密を私に告げる母は、恥ずかしそうに肩をすくめて涙ぐんだ」。

和子さんの詠まれた「是れに増す悲しき事の何かあらん 亡き児二人を返せ此の手に」。天皇の戦争責任を深く問い続けた憤りと悲しみは、古川さんをも貫くものであった。
それから、古川さんは、彼女の母の短歌への想いを胸に、作家の松下竜一さんとの手紙による交流がはじまり、松下氏の裁判への支援を経て、ご自身の地元である箕面忠魂碑違憲訴訟の原告にご夫婦でなっていくことになる。

これ以降、サブタイトルで「よき人々との出会い」とされている通り、ご両親、箕面忠魂碑の神坂夫妻、大杉栄・伊藤野枝を両親とする伊藤ルイ(ルイズ)さんとの出会いなど、天皇制や「軍隊慰安婦」をはじめとした日本の戦争・戦後責任をめぐる想いと、裁判闘争のなかでの人々との交流が描かれる。私たち反天皇制運動連絡会の活動にも大きなご恩をいただいた歌人の三木原ちか(深山あき)さんのことも触れられており、どのような方だったのかを初めて知らせていただいた。

私たちが、これまでに持続してきた天皇制をめぐる運動の中で、地域の違い、年代の違いを超え、どのようなつながりをつくり、維持し深めていくか。古川さんのこの本を通じて、そのことの重要性をあらためて知らせていただいたという思いがする。心から感謝したい。

(蝙蝠)