【今月のAlert】本当に終わりにしたい天皇制

ひたすらに嫌な話が続く中での、沖縄県知事選、辺野古新基地反対の玉城デニー圧勝。沖縄の人々による粘り強い運動が、安倍を追い詰めている。しかしヤマトはどうしてこうなのか、忙しく動きながらも、やはりじっくり考えていくべきだ。

今月も取り上げるべき課題は多いのだが、古くなりつつある杉田水脈衆議院議員の「LGBT生産性なし」発言をめぐり少し触れておきたい。『新潮45』二〇一八年八月号で、杉田議員は「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」等々を書き連ねた。杉田発言への批判は噴出・炎上し、その後援護射撃的拍車をかけた特集を組んだ『新潮45』は更に炎上。九月二一日、新潮社社長は「謝罪ではない」のコメント付きで「認識不足」等の声明を出した。そして、二五日、「このような事態を招いたことについてお詫び致します」という、誰への謝罪かまったくわからない声明とともに、『新潮45』の事実上の廃刊を発表した。

発言内容もこの幕引きも問題だが、そもそもこの手の発言がこれまで何度もくり返されていること自体が問題である。

石原慎太郎元都知事の「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」、いわゆる「ババア」発言(二〇〇一年)。森喜朗元首相の「子供を1人もつくらない女性の面倒を、税金でみなさいというのはおかしい」(二〇〇三年)、柳沢伯夫元厚労相の「女性は生む機械」発言(二〇〇七年)。麻生太郎元首相の「(自分には)子どもが二人いるので、最低限の義務は果たした」(二〇〇九年)、山東昭子元参院副議長の「子供を四人以上産んだ女性を厚生労働省で表彰することを検討してはどうか」(二〇一七年)。これらは、国や都の上層部にいる者たちの発言である。そのたびに、大きな批判の声が上がり、辞任を迫られたり裁判を起こされたりしているが、発言の主は誠意のない撤回と謝罪、あるいは間違った解釈・報道であると非難し、今回は掲載紙を廃刊させて居直り続けている。提訴された石原を裁判所は、発言は「不用意」と指摘するのみで原告敗訴。司法も同じ穴の住人だ。

どうして、女はこうも「子どもを産むこと」でその価値を計られるのか。

日本国憲法第二条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とある。その「皇室典範」第一条には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とある。世襲制と男系男子。そうやって継承される天皇を、この国と「国民統合」の象徴と憲法は定めているのだ。女が産むことで維持される国の制度。石原、杉田らの発言はむしろ天皇制に依拠しているとさえいえる。

しかし、杉田らが暴言・妄言を発する時、天皇制を意識していたかといえばそうでもないかもしれない。天皇制であろうとなかろうと、支配層は私たちを「民力」「国力」「人口」としてカウントし、人権なんて無視だ。「産めよ増やせよ」政策なのだ。天皇制の日本だけでなく、国家とはそういうものだろう。日本は「産む」ことに至上価値を与える天皇制という、うまい装置を持っているという話である。天皇制とは、そういう国家の思惑にそったイデオロギー装置であることを、多くの人がそろそろ気づいてもよさそうなものだと思う。しかし、杉田発言を批判し、天皇一家を愛する人々がそこに矛盾を感じていないのも事実だろう。少なくない人々は政治家・役人たちに反発するが、天皇制はいいらしい。そこに矛盾を感じないことの問題がこの社会の大きな課題なのだ。

来年五月から皇后となる雅子は、子どもを産まないことで苦汁をなめてきた。同情し応援するのは勝手だが、それでも応援して天皇制を残したければ、石原や杉田たちと同じ穴の住人とならざるを得まい。

安倍は再選し、就任早々の柴山昌彦文科相が「(教育勅語は)今の道徳などに使える」を発言。また繰り返しが始まった……。今月二三日、政府は「明治一五〇年」記念式典を開催。政府はどうあっても我が道を行くだけだ。だけど、私たちもやる。二二日は政府式典反対デモだ。二五日には安倍靖国参拝違憲訴訟控訴審判決もある。「即位・大嘗祭違憲訴訟」も準備が進んでいる。反戦・反基地・反差別の行動も呼びかけられている。一一月は「終わりにしよう天皇制」の集会。チラシ等お見逃しなく! そしてみんなで出かけよう。本当に終わりにしたい。

(桜井大子)