今回(九月二五日)は標記の本を取り上げた。
この本は、近代天皇の絶大な権威がどのように作られたかと問い、それは天皇自体からよりも、天皇の権威を必要とする人びとが作ったのだと答える。本書の論理は次のようだ。幕末・維新期に、支配権力樹立に向かう国家指導集団及び自らの指導する村落に秩序を取り戻したい村落指導勢力は、この時期、内外から迫る体制の危機に面して、おりから社会全体に拡がる民衆の民俗信仰世界が持つ反秩序のエネルギーを鎮圧し、秩序の諸原理に沿って編成替えする必要があった。このとき先頭に立たされるのが、秩序の根源と想定される天皇、国体の権威である。彼らはこれを作られるべき国家の文明化の方向に結びつけ、これをもって「愚民」の反抗のエネルギーを国家にとってのエネルギーとして吸収するのだ。
こうして近代天皇制は国民的に受容される社会的基盤を得、超越的な権威として働く。しかしそれは内に包みこんだ民衆の本来反抗性をもつエネルギーとの矛盾を潜在させることになり、現代にまでわたって反天皇制の契機がここに求められることになる。
著者のこの見方に対して、近代全体を通じて観察されるべき近代天皇制形成過程を明治維新期だけで考えることの無理、幕末期民衆意識の受動性だけでなく、その後それが能動化していく先で国体観念が待ち受けていたのではないか。民衆の生活世界に本来反天皇制の契機が潜在しているという見方の甘さなどが指摘され、一方で宗教界を国家につなぎとめるため、社会文明化の片棒をかつがせ、また憲法秩序に「信教の自由」、裏返せば国家神道が盛り込まれるという考えに興味が示された。また一九七〇年代ころ本書の著者に対し若い知識層の一定部分が関心をもった理由なども語りあわれた。
次回(一〇月三〇日)は、菱木政晴『市民的自由の危機と宗教―改憲・靖国神社・政教分離』(白澤社)
(伊藤晃)