【連帯アピール】福岡市民救援会第6回総会へのメッセージ

福岡市民救援会のみなさま

距離的にはやや離れている東京の反天皇制運動連絡会(反天連)から、第6回総会を迎えられた福岡市民救援会のみなさまに、日ごろのご活動に敬意を表し、感謝と連帯のメッセージをお送りします。
物理的な距離はともかく、課題的には、私たち反天皇制を掲げるものにとり、市民救援を担っておられるみなさまの活動は、とても近しい存在であり、なくてはならない運動です。
昨年は、「全国海づくり大会」に反対する行動においても大変お世話になりました。デモ参加は、とりわけ反天皇制のデモでは、ワクワクする一方でそれなりの緊張を強いられ、この間の治安状況を考えると、最悪の事態もありうるということも頭の片隅にはあり続けます。そういった活動において救援会は本当に心強い存在です。昨年、福岡のデモで心おきなく声を上げ、参加者のみなさんと一緒に解放的な気持ちで歩けたことの背景には、救援会の存在は大きかったはずです。デモ出発前に救援会の電話番号を知らされた時、その電話番号を握りしめ、「お守り、お守り」と心に念じました。ありがとうございました。
また福岡市民救援会には、以前に反天連の仲間が治安弾圧の対象となった時、こちらで発した抗議声明等に賛同をいただいたりもしています。あらためてお礼の気持ちをお伝えします。とても心強く本当にありがたかったです。感謝しています。
私たちは、代替わり状況のただ中にある今、右翼も警察も本気で反天皇制運動に対峙してきていることをヒシヒシと感じています。そのようななか、反天連も、反天課題はもとより、さまざまな諸課題を担う友人たちとともに知恵を出し合い、「天皇制いらない」の声を拡げていく運動をつくり出す一翼を担っていきたいと考えています。状況は日々厳しくなるのかも知れませんが、手をつなぐべき人々がたくさんいることを信じ、頑張っていきましょう。これからもよろしくお願いします。
ともに!

2018年2月25日
反天皇制運動連絡会

【集会基調報告】「代替わり」と近代天皇制150年を問う 2・11反「紀元節」行動 集会基調

1 「建国記念の日=紀元節」をめぐる問題

今年もまた、この二月一一日には、神社本庁や日本会議など右派団体の主催による「建国記念の日 奉祝中央式典」と「奉祝パレード」が開催され、また、各地においても式典や集まりが開催されて、政府や自民党をはじめとする政治家たちが参列している。それにもかかわらず、右派が切望する、政府の後援による「国民式典」は、二〇〇五年以降は開催できていない。

発足して間もない「明治」の太政官政府は、「祭政一致」「廃仏毀釈」など神道国教化による政治が破綻するや、諸外国の制度を模倣して大がかりな制度の策定に着手した。一八七二年に太陽暦が導入され、一八七三年には国家の祭日や祝日が布告されて、天皇制にちなんだ「祝祭日」が制定された。二月一一日が「紀元節」と制定されたのは、記述の解釈すら確立していない記紀神話が、「神武」による「肇国」をあたかも歴史的事実であるかのごとく装い、暦計算を曲解しながらつじつまを合わせただけのものに過ぎなかった。

しかし、これによって「神武」にはじまる天皇の「万世一系」の神話が、疑いを入れる余地のない国家的「事実」の地位を占めることになり、同時期に開始された軍制や学制の整備にも重大な影響を与えていくことになったのだ。天皇のための死者を祀る東京招魂社の設置も同時期である。「神武東征」は全き事実として扱われ、さらにその後、「八紘一宇」は大日本帝国の中核的概念とされるに至り、侵略政策を担う思想としてアジア諸国・諸民族にまでも強要された。

「紀元節」は、戦後改革の中で一九四八年に一度は廃され、天皇神話は歴史事実としても否定されてその根拠を喪失していたはずだった。しかし、これが一九六六年に「建国記念の日」として新たに制定されたのちには、これへの批判は徐々に押しつぶされて、その後は一九七九年の「元号法」、一九九九年には「国旗・国歌法」などが次々と制定されてきた。これらの法律は、いずれも制定当初にはこれを強制するものではないとしながら、すぐさま天皇制や国家に対する服属を示す重要な儀礼や制度として、公務員や学校にはじまり、社会の成員全体に向けて強要され続けてきたのである。

こうした経過によって、「建国記念の日=紀元節」は国内外から多数の批判を受け、皇族たちからすらも批判されて宮中祭祀から外されている。これが右派勢力による「民間」式典としてある現状は、むしろその本質を指し示すといってよい。

昨年は、安倍政権の腐敗と身内への利権供与が多くの面で露呈した年でもあったが、その中で、国会決議で明確に否定された教育勅語などに基づいた極右思想が、宗教団体や日本会議などを経由して、右派や保守派全体、そしてさらにインターネットにおける虚構の宣伝や、メディアの屈服と「忖度」によって、幅広い影響力を持っていることが示されている。政府もまたこれを追認するような閣議決定を行なっている。政府が「国際性」を強調するほどに、同時に醜悪な民族差別主義への傾倒も強まっている。

天皇の代替わりが来春に予定されるという状況下にある現在、天皇制の歴史そのものを批判することは、ますます重要な意味を持っている。明治にはじまる「一世一元」の「元号」の改定も、このなかですでに当たり前の事実のように扱われている。天皇の一族を特別な存在として扱う憲法第一章と皇室典範は、男女平等の理念を掘り崩すとともに、「家族=国家」観を天皇制の側から押しつけるものとしてある。こうした世界観、「道徳」認識、歴史認識を強要しようとする右派は、いま、かつて明治天皇にまつわる「明治節」とされた一一月三日を、あらためて「文化の日」から「明治の日」へと復活させようとしている。私たちは、これらを多面的に批判し、戦っていかなければならない。

 

2 「明治一五〇年キャンペーン」に反対しよう

着々と進む「代替わり」儀式の準備と並行して、政府は、「明治一五〇年」の祝賀事業を進めている。

「長州出身」の首相として、安倍晋三は、明治一五〇年記念のイベントを、自ら主導して行いたいと早くから口にしていたという。すでに二〇一六年一〇月には、菅官房長官の指示により、内閣官房に「明治一五〇年」関連施策推進室という専門部局が設置され、翌月には各省庁の連絡調整機関である「明治一五〇年」関連施策各府省庁連絡会議のもとで、さまざまなプロジェクトの検討が始まった。

現時点では、開催も含めて確定してはいないが、メインの儀式として、当然、政府主催の記念式典が想定されているはずである。
一九六八年の「明治一〇〇年」の際には、「明治改元」の日である一〇月二三日に、昭和天皇夫婦や皇族、閣僚・国会議員、各国の外交団、各界代表など一万人を集めて、九段の日本武道館において政府式典が挙行された。首相や天皇の式辞、各界祝辞に続いて「明治一〇〇年」を祝う音楽などが演奏され、最後に、安倍の祖父の弟に当たる佐藤栄作首相の音頭で「日本国万歳」が三唱されている。

今回、計画されている記念事業について見てみると、昨年末現在で、国主催のものが一五二件、地方公共団体レベルのものが二〇〇八件にのぼる。ほとんどが展示会や講演会、アーカイブの構築などで、なかには既存のイベントに「明治一五〇年」の冠をかぶせただけのものも少なくない。記念切手や記念硬貨の発行も計画されているが、比較的大規模なものとして、昨年夏に閣議決定された、大磯にある伊藤博文の旧邸を中心に、近隣の「明治の元勲」の旧別荘を一括整備して「明治記念大磯庭園」とする計画がある。国は同園の年内公開をめざすとしている。

明治一五〇年の施策に関して政府の文書は、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ向けて」と称して、「明治期においては、従前に比べて、出自や身分によらない能力本位の人材登用が行われ、機会の平等が進められた。……『明治150年』を機に、国内外でこれらを改めて認知する機会を設け、明治期に生きた人びとのよりどころとなった精神を捉えることにより、日本の技術や文化といった強みを再認識し、現代に活かすことで、日本の更なる発展を目指す基礎とする」と述べている。

また、二〇一六年におこなわれた「各府省庁連絡会議」のヒアリングには東大名誉教授の山内昌之や帝京大学教授の筒井清忠が招かれ、基本方針についての意見を述べた。山内は、「犠牲者を最小限に」して統一国家、主権独立国家体制が築き上げられたことを評価し、筒井は、「五箇条の御誓文」と、それに続く明治憲法体制・議会政治の「延長線上に」現在の日本の民主政治がある、能力主義による人材登用や、外国文明の「取り入れの達人」である日本人の特性が、伝統との「バランス」のとれた日本の近代化を成し遂げたというのである。

これらの言説は、イノベーションやらクールジャパンなどといった、安倍や財界が求める流行の価値観を日本近代の出発点に投影した、「ニッポンスゴイ」論であるといえる。それは、起点としての明治の始まりを賛美するだけでなく、「一五〇年」を、今に続く一連の発展を遂げた近代化の歴史ととらえ、それをもたらした精神文化の称揚とともに、まるごと賛美・肯定しようとするものだ。だからもちろん、その近代化の内実に目が向けられることはない。「一五〇年」の基調をなしている思想は、「一〇〇年」のときと同じく、近代化(賛美)論である。しかし「明治一〇〇年」のときには、欺瞞的なものにすぎないとはいえ、それでも存在した「物質文明による自然と人間性の荒廃」などの反省的なポーズすら、今回はまったく消えて、「明治の精神」がひたすら賛美されているのだ。

現実の明治=近代日本の一五〇年とは、その前半は、アイヌモシリ・琉球の帝国主義的統合に始まり、上からの資本主義化を急速におしすすめ、農民反乱や自由民権運動などを暴力的に圧殺し、アジア侵略・植民地支配と戦争に彩られたものであった。そしてその後半は、安保体制に基づくアメリカの世界支配戦略に積極的に加担し続け、象徴天皇制のもとで侵略戦争と植民地支配から目を背けてきた。そして、開発優先の経済成長政策の果てに、3・11の原発事故もまた引き起こされたということも、忘れ去ることはできない。「一五〇年」はそのように無条件に賛美されるような歴史では決してないのだ。

私たちは、この「明治一五〇年」が、明仁天皇「代替わり」の前哨戦として行われるイベントであることに注目しなければならない。一九六六年の「建国記念の日」=「紀元節」復活も、「明治一〇〇年記念式典」と連動したものであった。「明治一五〇年」とは、「天皇制国家の一五〇年」にほかならない。どのような立場でこの歴史を検証し、捉えるべきかが問われているのだ。こうした歴史を見すえ、近代天皇制の歴史総体を批判していくという立場から、今年一年間の反天皇制闘争を開始していきたい。

 

3 「天皇退位特例法」と天皇状況

二〇一六年七月一三日、NHKへのリークという形で天皇明仁が「生前退位」の意向を表明し、八月八日には、直接私たちに語りかける映像ビデオが一斉にTV放映された。天皇はそのビデオで、天皇の大切な「務め」として「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」をあげ、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なもの」と語った。さらに、「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」とし、摂政の拒否もつけ加えている。そして「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。/国民の理解を得られることを、切に願っています」と結んだ。

天皇の「祈り」の公然化は憲法二〇条の政教分離原則に抵触する。国内巡行等の「公務」も憲法の天皇規定から外れ、私たちは違憲と考える。それらを天皇は自らの言葉で、天皇の「務め」、象徴的行為として正当化し、憲法に規定されている「摂政」を拒否し、「生前退位」への「国民の理解」を求めたのだ。

このメッセージから約一〇ヶ月後の二〇一七年六月九日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が全会一致で可決し、第一条にはこの天皇の言葉を大きく反映した条文が、しかも敬語で盛り込まれた。「国民」は「公務」に励んできた天皇を「敬愛」し、高齢によりそれが充分に果たせないという天皇の思いを「理解・共感」している。それらを考慮して特例法を制定するというのだ。「国民の総意」は、天皇発議の法制定や、「公務」容認、天皇の拒否権行使など、ことごとく違憲性の高いこの特例法のエクスキューズとして使われたのである。

実際、メディアにあふれる言説では、安倍たち伝統主義右派を除く政治家、学者、ジャーナリスト、護憲派を含む多くの活動家や市民は、一部の例外を除き、天皇の「お気持ち」忖度、天皇の希望に応えるという一方向に向かっていた。天皇はあたかも社会全体を味方につけ、安倍政権と対峙したかのような状況がつくり出されたのである。

一方で、恒久的「生前退位」や「安定的皇位継承としての女性宮家」等々を容認できない安倍首相は、安倍の支持基盤である伝統主義右派への配慮もあいまって、目に見える形の抵抗を試みている。二〇一六年九月二三日に発足した「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」は、「生前退位」ではなく「公務の負担軽減」を目的に動き出したのだ。そこでは、「生前退位」を容認するか、その場合は「特例法」か「恒久法」か等々、「国論」を二分するかのような状況もつくられたが、すぐさま、安倍たちと天皇「忖度」派の妥協のための「調整」の時間へと向かった。翌年二〇一七年からは、天皇課題で反対意見を出させないという全会一致可決を目指し、衆参両院議長・副議長が調整のために奔走した。その翼賛国会の結果が「特例法」である。衆参両院議長・副議長による調整は、「国民」の代表による合意とされ、ここでも「国民の総意」言説がつくられた。

こういった国会内の伝統主義的右派とリベラル天皇主義の妥協は、結果としてより強力な象徴天皇制を作り出した。たとえば、「皇室典範」に「この法律の特例として天皇の退位について定める天皇の退位等に関する皇室典範特例法は、この法律と一体を成すものである」という一文を附則として追加する改正を特例法の附則に入れ、これが「将来の天皇が退位する際の先例」となり得ることを明言した。さらに「公務」前提の法律とした。あるいは法案採決にあたり「政府は女性宮家創設など安定的な皇位継承のための諸課題について、皇族の事情も踏まえて検討を行い、速やかに国会に報告する」とする附帯決議をした。これらの天皇制にとって好都合な結果は、すべて妥協のための「調整」がつくり出したものだ。

二〇一七年一二月一日、皇室会議が開催され、安倍は天皇の「退位」を二〇一九年四月三〇日、「即位・改元」を五月一日と定めた。「即位・大嘗祭」も、二〇一九年秋予定との報道がすでに流れている。式典準備委員会も設置され、事態は着実に進められている。また、二〇一八年度予算には、上皇夫婦、新天皇一家の住居改修や「即位の礼」関連儀式準備、職員増員のための費用として、三五億六〇〇〇万円が計上された。これらはもちろん、庶民のなけなし生活費からはぎ取った税金だ。そしてそこには、いま話題沸騰の秋篠宮眞子結婚への持参金、一億五三〇〇万円も含まれているが、結婚延期となった今、少なくともこの金額は削減されるべきだ。

こういった「代替わり」関連情報は今後も増え続け、それに比例して人々の関心は天皇制へと向かわされていく。そして今後展開されるのはさまざまな「退位・即位」にまつわる儀式であり、報道を通した服属儀礼への強制参加である。

私たちは、「平和」と「慈愛」と「護憲」を建前に「国民」にすり寄ってくる天皇一家の言動が、現政府の思惑や政策を補完する関係でしかあり得ないことを繰り返し訴えたい。そして、天皇が君主然として振るまい始めている天皇状況と、「明治一五〇年」を祝おうという政府の思惑が、この社会をさらに民主主義からも平和からも遠ざけていくということを、多くの人たちと共有し、これから始まる天皇代替わり状況と対峙していきたい。

 

4 「天皇制国家劇場の連続興行」と改憲にNОを!

「明治一五〇年」とは、そのまま神話にもとづく天皇制によって国民が統合された近代天皇制国家の一五〇年である。政府の目論む「明治一五〇年」記念事業は、列強から独立を守り、一等国へと成り上がった「国家建設の成功物語」への郷愁である。

しかしその「物語」は七二年前に国際的にも国内的に膨大な被害もたらしたあげくに完全な破綻へと帰結した(天皇制国家がおかした侵略戦争・植民地支配に対する謝罪と補償はなされていない)。そうした史実を糊塗するとともに、現在の日本国家(あるいはグローバル世界資本主義)が抱える矛盾(財政破綻、格差拡大、原発事故等々)から眼をそらさせことも意図して、「国家建設の成功物語」再現ムード(イメージづくり)が醸成されようとしているのである。

この「明治一五〇年」(二〇一八年)は、新天皇即位・改元(二〇一九年)、新天皇の国際デビューである東京五輪(二〇二〇年)と連続する「天皇制国家劇場の連続興行」の皮切りとなる。
新天皇を軸として上皇を含むあらたな天皇制国家への統合(再統合)に向けたこの一連の「興行」(イメージ操作)は、時には暴力剥き出しの弾圧も繰り出されるであろう。

私たちは、天皇の代替わり過程における国家儀礼・儀式に対する抗議の声をあげるとともに、戦後作り上げられてきた天皇による国家統合のさまざま仕組み(植樹祭、海づくり大会、国民体育大会、慰霊追悼の旅、被災地慰問等々)に対して執拗にNО!の声を上げつづけることが必要である。

植樹祭は今年六月に福島県(二〇一九年は愛知県=新天皇の最初の行事か?)、海づくり大会は今年一〇月に高知県(二〇一九年は秋田県)、国体は今年は九月から一〇月に福井県(二〇一九年は茨城県)で行われる予定である。開催現地の反対の声とも呼応して、天皇行事に対する抗議の声を上げていこう。

また、天皇参加で始められた政府主催の東日本大震災追悼式は、秋篠宮の出席を得て今年も三月一一日に行われる。犠牲者を慰霊・追悼するこのセレモニー(儀礼)は、原発避難民の切り捨て、事故原因の追求を棚上げにした原発再稼働政策が推進されるなかで行われることを忘れてはならない。

さらに、明仁天皇の三月(二七〜二九日)の沖縄訪問が発表された。国立沖縄戦没者墓苑への献花と共に、与那国島への初訪問も予定されている。沖縄では、辺野古米軍新基地建設阻止行動が二〇年にわたり続けられている。また与那国島は、二〇一六年に島民世論が割れる中で自衛隊(陸自の駐屯地と沿岸警備隊)配備が南西諸島としては初めて強行された(宮古島、石垣島への配備も強行されつつある)。こうした渦中での天皇の訪沖(訪与那国島)に際しては、「明治一五〇年」の当初から今日まで連続する日本(ヤマト)国家による沖縄の植民地(的)支配、構造的差別構造を改めて厳しく問わなければならない。

政策の失敗それがもたらした被害に対する責任をとらない、無責任国家体制を中核で支えるものこそ天皇(皇族)による慰霊・追悼・慰問なのである。

そして最後になるが、安倍首相は、昨年の五月三日(憲法記念日!)に「二〇二〇年新憲法施行」発言を行った。安倍政権による明文改憲が眼前(早ければ年内の改憲発議、二〇一九年の国民投票)に迫っている。安倍の改憲は、侵略戦争・植民地支配を基調とする明治国家(近代天皇制国家)が目指した国づくりの破綻(反省)によって生み出された日本国憲法の平和主義をなきものにしようとする策動にほかならない。断固としてNО!の声を上げなければならない。

「天皇制国家劇場の連続興行」とその渦中での改憲攻撃に対して、NО!の声を!

その最初の一歩として、今日、私たちは「紀元節」反対の声を上げる。皆さんと共に!

二〇一八年二月一一日

【学習会報告】ケネス・ルオフ『紀元二千六百年:消費と観光のナショナリズム』(木村剛久訳、朝日選書、二〇一〇年)

一九三一年の満州事変に始まり、アジア・太平洋戦争へと至る戦争が日本人にとって破滅的な事態を招いたのは歴史的事実である。しかし、その戦時はずっと暗い谷間の時代だったとする理解は、果たして正しいのだろうか。著者は、そうした戦時の理解は、戦後になって定着した神話に過ぎない、と指摘する。

日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争直前の一九四〇年は、皇紀二千六百年であるとされ、万世一系の天皇制国家をたたえるさまざまな記念行事が繰り広げられた。帝国臣民は定時に宮城を遥拝し、皇国史を学び、出版社や新聞社の愛国歌・作文の募集に応じ、聖地を訪れ、百貨店の催事を見に出かけた。また、皇室関連の場所や神社を拡張整備、清掃する勤労奉仕もいとわなかった。

こうした大衆参加を促したのは政府だけではない。民間企業も祝典をビジネスチャンスと捉え、消費を促した。戦時のナショナリズムが消費を刺激し、消費主義がまたナショナリズムを煽っていた、そのさまざまな実例はとても興味深い。

帝国全土にわたる消費と観光を支えたのは近代ナショナリズムである。海外同胞も巻きこんで開催された大イベントは、帝国日本の血統による国民形成と統合の試みであったが、うまくいかなかったことも描かれている。

また本書は、一九四〇年を頂点とする大衆消費社会の到来に焦点を当てながら、同時代のドイツ・ナチズムやイタリア・ファシズムとよく似た政治体制が日本でも成り立っていた、とする。つまり、生活が制限され、自由もなかった暗い谷間であったとの捉え方と、丸山眞男の、日本には「下からのファシズム」がなく「上からのなし崩し的なファッショ化」が進んだだけ、とする捉え方も批判する。戦時日本の大衆的行動主義を軽視している、と。

議論では、著者が戦時日本もファシズムと把握しようとする整理に対して、ドイツやイタリアでファシズムが成立したのは共産主義革命を潰すための反革命であり、日本にはそうした現実性はなかった事実も見落としてはならない、との指摘がされた。また、ナチスが行った暴虐が明らかにされた戦後においてもなお、「あの時代は良かった」という回想が少なからぬ体験者がいる事実を含め、ナチス・ドイツを研究した池田浩士さんの仕事や、戦時下日本において、家の束縛からの解放感を実感として持って女性たちが戦争協力していった歴史を分析した加納実紀代さんの女性史研究が、先行研究としてあることも指摘された。本書は、戦時日本像を捉え返すだけでなく、現代のファシズムを考えるうえでも、さまざまな材料を与えてくれており、議論は尽きなかった。

次回は、二月二七日(火)。テキストは、『皇紀・万博・オリンピック:皇室ブランドと経済発展』古川隆久(中公新書/一九九八)

(川合浩二)

【追悼文】追悼・福富節男さん 反天皇制運動の中での交流

〈「老衰」のため〉という福富節男さんの死去の連絡は、「日本はこれでいいのか市民連合」から、私たち「反天皇制運動連絡会」に移ってきて熱心に活動し続けたという、めずらしい経歴の事務局メンバーであった八坂康司から来た。「一二月一八日」に亡くなられたと、福富さんと、運動上の付き合いの長かった八坂はつたえてくれた。九八歳の誕生日をこえた後の死であった。

八坂の電話の後、福富さんとともに動きまわった日々の断片的シーンが、いくつもいくつも私の頭の中に浮かんできた。本当にすさまじい数の会議をデモを、大小さまざまな集会をともにつくってきたのだ。

最後のデモのシーンは、良く覚えている。糖尿病の悪化で、ほとんど歩くことができなくなっていた私は、デモの宣伝カーに乗り込んでいた。デモの出発地点、いつもの通り右翼の暴力的介入で大混乱、殴りかかりつつ「非国民死ネ!」などという罵声をあげる暴力の渦の中を、福富さんがゆっくりと歩いて来たのである。車の窓の外から、私に何か手渡そうとする。私は危険を感じて、いそいで窓をおろして対応すると、「勉(べん)さんの食事管理のためのノートと血糖測定機だ。「気をつけて生きてくれ」と短くつたえて、福富さんはスタスタと歩き去っていった。そのノートは家に帰ってどういうものか理解できたのだが、糖尿病の大先輩である、渡辺勉さんの日々の三食のメニューをこまかく書き込んだものであった。福富さんが、わざわざ彼の長い友人の勉さんのところから持参してくれたのである。私は、九十歳を超えていたであろう福富さんが、こんな危険な場所から、無事にひきあげられるだろうかと、ハラハラしながら、その背中を見送ったことを、昨日のことのように覚えている。おそらくそれは、「デデモクラシーモ暮らし」の人生を自認していた福富さんの最後のデモ参加だったのではないかと、いま思う。

もう一つの思い出のシーンは、一九八八年の四月二九日・三十日に、のべ二千人をこえる参加者で持たれた昭和天皇の「代替りの政治」プロセスでの、都内大結集の第一派の準備の時間だったと思う。私たちは、いくつもの分科会をつくり、ここで広く反天皇制の声を結集させなければ、次のステップはないという思いで必死の努力、自分たちの力量をまったく超えたことの実現のための努力をかさねていた。「共同行動」の事務局の会議(作業)はほぼ連日深夜まで続いていた。その渦中のある日の事である。場所はハッキリしないが、深夜に福富さんと私は奇妙に大きな電話ボックス(どこか人のいない高速道路の中にでもあるようなそれ)の前にいる、そして福富さんが海外電話のためのそのBOXに入り、電話をし出てくる。そして「残念、ダメだった。ドイツからは帰国しているんだが、その翌日のスケジュール、無理はお願いできなかった」と、本当に残念そうに告げる。「しかたないですね」と答えながら、私は、その時この局面で、すさまじい数の講師への発言依頼を引き受けて、人には言えないが(本当はこういう気配りをはりめぐらすような作業は苦手な私が)ヘトヘトになっていたのを見かねて、加藤周一さんへの依頼を(福富さんの提案だったということもあったか)自ら、引き受け、深夜までつきあってくれた時のことである。数学者であった福富さんは、運動を引っぱっていくような方針を出し、主役で活動するタイプではまったくなかった。しかし、運動が力になるように、どう人々に広くつたわる主張(スタイル)をつくりだすかという点については、常に誰よりも運動の中で考えていた人だったと、いま思う。三十歳近く年齢が上の福富さんは、このように長い間いつも運動「現場」の苦労を、ともにしている特別な〈友人〉でありつづけた。

集まりを広げるべく、私たちではとても思いつかない(ただし交渉しだいでは出てきてもおかしくない)加藤周一さんの名をあげ、直接交渉までしてくれた彼と私は、深夜の車道を、「代わりは誰がいいかな?」などと話しながらトボトボと歩き続けた。この深夜のトボトボ歩きは、結果的には、思いもかけぬ大結集をうみだしたこの〈反天フォーラム〉の時の忘れられない思い出の一コマである。

私たちの反天皇制の「共同行動」のリーダー層は、セクトであれノンセクト(あるいは党派をやめた人)であれ、ほぼ大学で全共闘運動の体験者であった(もちろん、それ以外の人も少なくなかったが)。共通していたのはひたすらソフトな「市民(主義)運動」への、強い反発であったと思う(これも、またそうでない人もいたが)。だから、あのような大衆的な広がりをつくりだす力量はなかったと思う。猪突猛進の〈心情的急進主義者〉の群れだったのだから。福富さんは、その群れの内側から、私たちの偏狭さを、とりはらうべく、したたかに動き続けた。私個人でいえば、彼が「ベ平連」などの活動を通して知っていた、実に多様でユニークな人々と交流する機会を、数かぎりなく作ってくれた。人と人の出会いは、自然に人を変える(自己相対化の契機になる〈出会い〉というものは、まちがいなくある)。福富さんと歩いた運動プロセスは、そういうことだったのだ(それが徹底的に少数派を約束された反天皇制運動を思いもかけず大衆的に拡大する主体的契機となったのだ)。福富さんは単なる「市民運動」者ではなかった。東京農工大の教師をしながら、自分が処分された日本大学の全共闘運動に加担する活動(日大闘争救援会)の経験もあり、「全共闘」の急進主義をハラハラした気分で見まもるというポジションは馴れていたのだろう。私たち硬直した運動のスタイルをもみほぐし続けてくれたのだ。楽しくラッキーな交流であった(もちろん、彼に反発し続けた党派のリーダーなどもいたのだが)。

私は、こういう認識を、共に運動を歩き続けていた時点で、ハッキリと持っていたわけではまるでない。後の時間で運動をふりかえり、そうだったんだナーと強く思いだしてきたのである。

ただ「遅刻魔」であった福富さんは(これは私はあまり人のことを言えた義理ではないが)、やはりひどくゆっくりと変化する人でもあった。私たちの運動の中で彼も実は大きく変わったのだ。

このことを示す、断片的シーンを、最後にもう一つだけ紹介する。私(と松井隆志)のあるインタビューに答えて、彼は、天皇制の問題や自分の天皇の軍隊の体験について正面から考えだしたのは、「天野くんたちの反天皇制運動を通してだ」とかつて証言している。自分は、軍人だった戦中も天皇信仰なんかなかったし、戦後は、どうでもいいものと考えてきた時間が長かった、軍隊体験なんて、ふりかえりたくもない嫌なものでのみあり続けた、とその時語っていた。運動を生きた後の彼の天皇制認識の結論はどういうものであったのか。それをストレートに示す発言が残されている。「『日の丸・君が代』の強制反対の意思表示の会」の二〇〇〇年十月二八日のリードイン・スピークアウト集会での発言である。この短文を読み、自分の意見を短くコメントするというスタイル(発言者は多数)の集まりで福富さんは、こう「昭和天皇」をこきおろした。

「さて私は嫌いな人がたくさんいます。……しかしなんと言っても最も嫌いなのは昭和天皇です。嫌いと言っただけでは私の気分になってしまいますから、きちんというと、これほど無責任で、そして卑劣な人間は古今いない、その辺にいる卑劣な大臣・議員とか官僚とかはこれに比べるとチンピラです。昭和天皇ほど無責任で、卑劣な者はいない。こういう話を五分で論じよというのは残酷すぎますよね。ですから資料としてはニューヨークタイムスの敗戦、終戦前後の見出し、それから皆さんが見てないでしょうけど、昭和天皇の初めてで最後の記者会見の一問一答の新聞記事(一九七五年一一月一日付)を入れました」。天皇は米国報道で己の身の安全を知っており、それゆえ、ポツダム宣言の受諾へ向かったという事実を示す八月一二日の米国報道。それと自分自身の安全のために敗戦を引き延ばし、広島・長崎の無差別殺傷爆弾攻撃があった事実を忘れたのごとき「原爆やむを得なかった」発言である。この後、彼は天皇の「人間宣言」なるものの「朕と国民との間の紐帯は」のくだり、相互の「信頼と敬愛」で結ばれている、との言葉を引き、「もう絶句したんですから、これでやめます」と話を結んだ。

主催者発言をし、司会者としてその壇上にとどまっていた私は、決して激しく個人を断罪し断定する政治主張をすることなどなかった(そういう「急進的スタイル」を嫌っていた)彼の発言に、本当に驚いたことをよく覚えている。それは、私たちが励まされてきた「戦中派」の渡辺清さんや平井啓之さん(ともに、「わだつみ会」)の、天皇個人への非難を突き抜けて象徴天皇制それ自体の全面否定へいたる心情と論理が、のりうつったかのごときものであったのだ。

〈天皇(制)だけはなにがあっても許してはいけない〉。その時、そのメッセージは、私の胸にストンと落ちた。

「平成の代替わり」の政治過程の時間の中で亡くなった福富さんとのささやかな追悼的回想を通して、反天皇制運動の〈経験〉史は、語られるべきこと、歴史的に整理されるべきことが、まったくほうり出されたままであるという実感を強く持った。この状況でこそ、それは果たされなければなるまい。それは福富さんが私たちに残した課題だ。

福富さん、楽しくそして大切な運動の時間を共有してくださって、本当にありがとうございました。

(天野恵一)

【書評】『「明治日本の産業革命遺産」と強制労働〜日韓市民による世界遺産ガイドブック』

「世界遺産」を冠にする広報やメディアの報道・番組を目にすることが多くなった。
特にテレビ番組では、ほとんどがアイデアも表現も一〇年一日のけたたましいシロモノばかりで、できるだけ遠ざけているのだが、「世界遺産」を紹介するという体のものはそれでも比較的おとなしめなつくりにしていることが多く、ふと流し見していることもある。

国連ユネスコは、その活動に求心力を持たせるために、この「世界遺産」の選定を活用してきた。確かに、ユネスコ憲章にもあるように、「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは人間の尊厳に欠くことのできないもの」として、「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」を共同で保存していく活動というものは意味があるだろう。とりわけ「近代化」が世界大となる中で、経済活動や文化衝突によって多数のものが「遺産」とさせられてきた。なかでも植民地化や資本主義化を爆発的に進めた国家や集団は、そのしばしば犯罪でしかなかった活動によって喪われた何くれに対して、重大な責任を持っており、その保存や意味づけを行なっていくべきだと思う。文化や「文化財」の「保護」は、それを踏みにじってきた歴史から考えるならば、欺瞞そのものだというしかないが、それでも、その固有の価値を確立するための努力や体制は、政治や経済活動その他による蹂躙を少しでも許さないために、怠ってはならないものだ。

しかし、近年になって、日本政府やその外郭団体、利権集団によって推進されている「世界遺産」採択活動は、対象の選択も恣意的きわまり、そのほとんどがおぞましいものでしかない。ちなみに、民間において「世界遺産」申請に圧力をかける中心的存在は、かの日本財団である。記憶に新しいのは記紀を根拠とする宗像三女神を祀った神社や島嶼を「神宿る島」としたものだが、このパンフレットが批判している「明治日本の産業革命遺産」もまた、その典型的なものだと言えるだろう。この件では、前川前文科事務次官によって、文科省の審議会に安倍政権が介入して、木曽、和泉、加藤などその利権グループを「有識者会議」に押し込んだ経過が明らかにされている。制定の過程では「一般財団法人産業遺産国民会議」なるものも立ち上げられた。

「明治日本の産業革命遺産」では、九州と安倍の地元の山口県の施設を主として登録された。産業革命に関連が深いとは言えない「松下村塾」や萩市城下町などもしっかり盛り込まれている。

しかし、この登録における問題は、それだけではない。「明治日本の産業革命」は、それ自体が正の「価値」づけをされるようなものではなかった。資本形成期の資本主義は、本質的に労働収奪的なものとして展開された。明治期の大日本帝国においては、「資本主義」の展開は、まさに侵略政策のただなかでその実体化として進められた。国内的には産業労働者として農民層を解体し、対外的にはそれに加えて植民地化された朝鮮などからの労働者の動員と強制労働がなされた。こうした経過は「世界遺産」としては後景に伏せられ、産業化の「栄光」とそれを推進した企業や個人の顕彰ばかりがなされている。登録時には、「戦時の朝鮮半島出身者の徴用は強制労働ではない」とまで主張している。強制労働や暴力についての指摘には、産経新聞やネット右翼などまで総動員して、これをもみ消そうとしているのだ。

このパンフレットは、90 ページほどに過ぎない小さなものだが、文章だけではなく図版を多数盛り込んで、さまざまな方面からこの問題を浮き彫りにしている。これまで韓国の側から歴史の発掘と資料の収集・出版に取り組んでいた「民族問題研究所」と、日本の側でこうした活動を展開してきた「強制動員真相究明ネットワーク」の共同で制作されたもので、この問題を今後も究明していくという意思を明らかにしているものだ。読みやすく、しかも内容は細かくて、テキストとしても優れている。
ウェブ上でも公開されているが、ぜひとも購入して活動を支援していきたい。

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強制動員真相究明ネットワーク/民族問題研究所
〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

(財)神戸学生青年センター内

http://ksyc.jp/sinsou-net/sekaiisann-g-book.pdf

送料込み五〇〇円
郵便振替〈00930ー9ー297182  真相究明ネット〉

(蝙蝠)

【今月のAlert】天皇「代替わり」・「明治150年」を撃つ反天皇制運動の拡大をめざして

今年に入って、天皇「代替わり」に関する準備が着実に進んでいる。

一月九日の閣議で設置が決まった「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会」(委員長= 菅官房長官)は、その日のうちに初会合を開き、三月中旬をめどに基本方針を取りまとめることを決めた。式典準備委員会では、「平成の即位の儀式を基本的に踏襲すべきだ」という意見のもとで、即位儀式のうち、「剣璽(けんじ)等承継の儀」「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の五つを国事行為とし、「大嘗祭」については国事行為とはしないが、公費支出をするという方針が示された。

「剣璽等承継の儀」は「三種の神器」などの引き継ぎ儀式であり、「即位後朝見の儀」は、即位後初めて天皇として「国民代表」に「おことば」を述べる儀式である。
純然たる皇室神道の儀式である大嘗祭も含めて、憲法の「政教分離」「国民主権」原則に対する重大な侵害であることは疑いない。

さらに政府は、皇太子・徳仁が即位する来年五月一日を「この年限りの祝日とする」方向で検討に入ったという。「昭和の日」にはじまる「一〇連休」があけたときには、「新しい御代」という祝賀ムードの演出ではないのか。五月一日のメーデーも天皇の記念日となってしまうのだ。

政府は、退位の儀式を四月三〇日、即位の儀式を五月一日に分けておこなう方針である。天皇が自らの意思で皇位を譲る「譲位」の色彩を帯び、天皇の国政関与を禁じた憲法に触れることがないようにするため、と説明されている。

これ自体が欺瞞的なものだが、伝統主義的右派は、それでは天皇の「空位」が生じると批判している。神社新報社が設立した「時の流れ研究会」は一月二四日に「御譲位の儀と御即位(践祚)の儀は、同日・同じ場所で引き続き行はれ、『剣璽』が承継されることを望む」「皇位継承の儀式は、憲法にも定められる皇位の重みから、国の重儀(天皇の国事行為、国の儀式)として執行されることを望む」などとする要望書を出した。彼らにとって、「三種の神器」は皇位の象徴であるので、その「引き継ぎ」なき「譲位」などありえないのだ。

こうしたくだらない議論がまじめになされること自体に、天皇制という国家の装置の核として、実は明確に「国家神道」が存在し続けていることが示されている。
それは単なる「神道儀式」であるから政教分離に違反するといった話ではないのだ。
これら「代替わり」儀式を通じて、国家の祭祀としての国家神道が現前するのである。それが日本の「文化と伝統」という言いぐさで肯定されることも、神社非宗教論を掲げた国家神道と同じである。

そして、この「代替わり」儀式の準備と並行して、各省庁の連絡調整機関である「明治一五〇年」関連施策各府省庁連絡会議のもとで、「明治一五〇年」の祝賀事業が進められている(昨年末現在で、国主催のものが一五二件、地方公共団体レベルのものが二〇〇八件)。現時点では、開催も含めて確定してはいないが、メインの儀式として、当然、秋には政府主催の記念式典が想定されているはずである。

明治一五〇年の施策に関する政府の文書は、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ向けて」と称して、「明治期に生きた人びとのよりどころとなった精神を捉えることにより、日本の技術や文化といった強みを再認識し、現代に活かすことで、日本の更なる発展を目指す基礎とする」と述べている。

政府広報で「明治ノベーション〜メイジン」なるキャラクター(?)が登場しているように、それは安倍や財界が求める流行の価値観を日本近代の出発点に投影した、「ニッポンスゴイ」論である。「一五〇年」を、今に続く一連の発展を遂げた近代化の歴史ととらえ、それをもたらした精神文化の称揚とともに、まるごと賛美・肯定しようとするものだ。

しかし、現実の明治= 近代日本の一五〇年とは、すなわち天皇制国家の一五〇年である。前半はアジア侵略・植民地支配と戦争に彩られ、また、後半は象徴天皇制のもとで侵略戦争と植民地支配から目を背けてきた歴史だ。「一五〇年」はそのように無条件に賛美されるような歴史では決してないのだ。

私たちは、この「明治一五〇年」が、明仁天皇「代替わり」の前哨戦として行われるイベントであるととらえ、近代天皇制の歴史総体を批判していくという立場から、今年一年間の反天皇制闘争を開始していきたい。2・11 反「紀元節」行動はその第一歩である。ぜひ多くの参加を。

そしてまた、昨年「終わりにしよう天皇制!11 ・26 集会・デモ」に取り組んだ首都圏の反天皇制運動の枠で、この二月から「元号はいらない署名運動」を呼びかけることになった。次号では、具体的な報告もできると思う。ぜひ、協力して、反天皇制の声を大きくあげていこう。

(北野誉)

【月刊ニュース】反天皇制運動Alert 20号(2018年2月 通巻402号)

今月のAlert ◉天皇「代替わり」・「明治150年」を撃つ反天皇制運動の拡大をめざして(北野誉)
反天ジャーナル◉井上森、つるたまさひで、映女
状況批評◉カラッポのタンスと聖徳の魔法(平井玄)
書評◉「明治日本の産業革命遺産」と強制労働〜日韓市民による世界遺産ガイドブック(蝙蝠)
追悼・福富節男さん◉反天皇制運動の中での交流(天野恵一)
太田昌国のみたび夢は夜ひらく〈93〉◉ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助の下で実施されたという「発見」(太田昌国)
野次馬日誌
集会の真相◉12 ・23 民主主義と天皇制:代替わりにあたり改めて問う(愛知)/1・14 「昭和」Xデー闘争の「経験」を通して、「平成」代替わりを考える/1・24 警視庁機動隊の沖縄への派遣は違法住民訴訟第五回口頭弁論/1・27 「沖縄報道を問う」シンポジウム
学習会報告◉ケネス・ルオフ『紀元二千六百年:消費と観光のナショナリズム』(木村剛久訳、朝日選書、二〇一〇年)
反天日誌
集会情報

→前号の目次はこちら

*2018年2月6日発行/B5判16ページ/一部250円
*模索舎(東京・新宿)でも購入できます。

http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/

【集会案内】明治150年=近代天皇制を問う 2.11反「紀元節」行動

明治150年=近代天皇制を問う 2.11反「紀元節」行動

日時:2018年2月11日(日)13:00開場

会場:全水道会館4F大会議室 ●集会後デモ

講師:太田昌国さん
資料代:500円

主催:「代替わり」と近代天皇制150年を問う! 反「紀元節」2.11行動
呼びかけ団体:アジア連帯講座/研究所テオリア/市民の意見30の会・東京/スペース21/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反天皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会/ピープルズ・プラン研究所/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動者評議会

【呼びかけ文】今秋には、「明治 150 年式典」が、政府主催で行なわれようとしている。1966 年に制定された「建 国記念の日」=「紀元節」復活は、1968 年 10 月 23 日に行われた「明治百年記念式典」と連動 したものであった。150 年式典にあたって政府は、「明治以降の近代化の歩みを次世代に残す」 とし、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識し、更なる発展を目指す基礎とする」などと、その「基 本的な考え方」を示している。言うまでもなく、「明治 150 年」とは、そのまま「近代天皇制 150 年」 にほかならない。それは、植民地化と侵略戦争に始まる近代日本の 150 年を一連の「近代化過程」 としてとらえ、「不幸な時代」はありつつも、それを乗り越えて現在の「平和と繁栄」につながっ ているという歴史の肯定と賛美である。「昭和の日」を実現させた民間右派勢力は、現在「文化の日」 である 11 月3日を「明治の日」とする運動を進めている。「紀元節」「昭和の日」「明治 150 年」 と続く一連の「記念日」を通して、今年一年、天皇と天皇制をめぐる向こう側の歴史観の押しつけは、 強化されていくだろう。そしてそれが、来年の天皇「代替わり」に向けた前哨戦となることも確 実だろう。 私たちは、この間各地でさまざまなかたちで取り組まれている「天皇代替わり」状況にたいす る抵抗とつながりあいながら、今年一年の運動を展開していきたいと考えている。2.11 反「紀元節」 行動へぜひ参加下さい。

【集会報告】反天連12・23集会「生前退位!? 」なにやっテンノー

天皇制の戦争・戦後責任を問う、反天連の恒例の討論集会。千駄ヶ谷区民会館にて約九〇名が参加した。天皇「代替わり」に向かうこの間の言論状況において、安倍の「戦争政策」と天皇の「平和主義」を対立させ、後者に期待するという言説が「リベラル」の中から大量に生み出されている。そんな中、天皇の「平和主義」の欺瞞を批判することの重要性を確認しつつも、それだけでは不十分ではないかという問題意識から、集会はつくられた。発題者は、反天連の北野誉さん、桜井大子さん、天野恵一さん、そして批評家の平井玄さんの四人。

まず、北野さんは、オーウェルがディストピアを描いた『一九八四年』の「二重思考」や「新語法」が、実は最近の言論状況にとても当てはまるのではないか。
「二重思考」を強いる装置として天皇制が機能しており、それへの批判は、天皇の「平和主義」の内在的な批判としてなされるべき、と提起した。桜井さんは、「良い治世者」像を求める民衆意識や欲望が、今の天皇に投影されているのではないか。憲法逸脱の度合いは大きくなるばかりでありながら、それを飲み込んでしまう象徴天皇制が持つ曖昧さがつくり出す強さを再認識すべきではないか、と語った。天野さんは、天皇が「退位」しても人間になるわけでなく、特権的地位は変わらない事実から、天皇は戦後もずっと現人神と人間の二つの観念を生きていることの欺瞞と偽善をこそ問題にすべき、と論じた。平井さんは、安倍の経済政策は行きづまり、「国家破たん」が先送りされている中、「曖昧な貧乏」として貧困化が進んでいることの現実を凝視する必要がある。資本主義の変容と収縮過程に天皇制がどう適応していくのか見定めつつも、貧困や非正規問題の中から闘いの豊かな可能性があるのではないか、と提起した。

その後の討論では、象徴天皇制自体が民主主義もリベラリズムも何でも入れることができる「国体論」のような使われ方をしているが、その使う側の問題や、天皇・皇后の方が貧困問題には自覚的で、逆に当事者たちが曖昧な気分のまま無自覚であることの問題などが指摘された。

(川合)

【集会報告】アキヒト退位とナルヒト即位を考える練馬集会

アキヒト退位・ナルヒト即位問題を考える練馬の会」の集会が、一二月二二日、千本秀樹さんを講師として開催された。

千本さんは「象徴天皇制、何が問題か」と題して問題提起。明仁天皇は、一六年夏のビデオメッセージにおいて、「国民」の情動に直接に働きかけることで、自身の退位と時代の天皇の即位に向けた流れを、憲法や皇室典範の枠組みを踏み越えてつくりだした。こうした行為が可能だったのは、「象徴天皇制」として再構築された天皇の権威・権力が、あらためて価値づけされ、行使されてきたことにある。そしてそれは、天皇の「護憲」発言や、死者の「慰霊」「追悼」をかつての戦場や大災害の被災地をめぐって行い、その姿を報道させることによって、より強固なものとされてきた。いまやそれは「最強の象徴天皇制」とも言いうるほどで、虚言と強権の政治を次々に繰り出す安倍政権よりも強い「統合力」を発揮し、政権批判の立場をとる人々の「支持」すらもとりつける。しかし、重視せねばならないのは、天皇制の「統合力」がまさに政権を補完することによってこそ拡大しているということだ。

「代替わり」の国家イベントに「国民」意識が組み込まれていきながら、政治システムも軍隊・警察も、所有も、社会の中での人間の関係、差別構造も、指一本触れられることなく残され、国家権力が恣意的に行使されていく。この国家的なイベントの中で、あらためて自らの人権を確立させ、対抗していくことがほんとうに大切なことであるということが、講演では、さまざまな方向から論じられた。なお、この日の講演の資料として配布されたのは、「現代の理論」http:// gendainoriron.jp/ 第10 号(一六年一一月)と第11 号(一七年二月)所収の千本さんの論文なので、内容については参照を。参加者は三〇数名。

前号の「ネットワーク」欄で池田五律さんが紹介してくれたように、今後、この会は「準備会」としてではなく、正式に発足する。ともに進んでいこう。

(蝙蝠)