「共同行動」カテゴリーアーカイブ

【呼びかけ】「明治150年」天皇制と近代植民地主義を考える 8・ 15 反「靖国」行動への参加・賛同の呼びかけ

二〇一九年四月三〇日明仁天皇「退位」・五月一日新天皇「即位」まですでに一年を切った。

四月初め、政府の式典準備委員会は「代替わり」儀式の基本方針を固め、明仁への「代替わり」のそれを今回も踏襲するとした。「即位の大礼」など五つの儀式を「国事行為」とし、「大嘗祭」は「国事行為」とはしないが、その「公的性格」に鑑みて、特別に公費を支出するという。政府や一部マスコミは、それが「政教分離」への配慮などというが、そもそも新天皇の即位儀礼とは、三〇にも及ぶさまざまな儀式の総体であって、その一部だけを切り離すなどということ自体無意味だ。私たちはまず、一連の「代替わり」儀式が、憲法上の「政教分離原則」と「国民主権」の原理を公然と踏みにじる、違憲の行為であるということを指摘しなければならない。そして、一連の天皇「代替わり」儀式は、日本が、天皇という世襲の君主を戴く国家であり、「国民」もまた天皇に象徴されることによって「国民」なのだということを再確認させる、最大の天皇制攻撃にほかならない。

そもそも、八〇歳を超える高齢となり、「天皇のつとめ」を充分全うすることができなくなったということを理由に、「生前退位」のメッセージを発し、退位特例法なる新たな立法すら実現させていったのが、この間の「天皇退位」の動きであった。にも関わらず天皇は、退位するその日まで、天皇としての「公務」や、皇室祭祀などを精力的に続けていく意思を示している。宮内庁がこの一年の間に、天皇としての「公的な活動」を、皇太子や秋篠宮に引き継ぐことを提案したが、天皇はそれに同意しなかったというのだ。

今年の三月二七日、明仁・美智子は沖縄・与那国を訪問した。この沖縄訪問を、マスメディアは相変わらず「慰霊の旅」などと描き出している。しかし、この地域は、対中国シフトをイメージした軍事的な拠点としてクローズアップされている。すでに二年前の三月二八日に、この与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置され、そして天皇が沖縄に着いたまさにその日に、陸上自衛隊は全国の五方面隊を一元的に指揮する司令部として「陸上総隊」を発足させ、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)をおいている。与那国では、町内のあちこちに、自衛隊協力会によって、「奉迎」の横断幕が掲げられ、天皇が乗った車は、自衛隊与那国駐屯地の隊員によって、と列で迎えられた。また那覇の国際通りでも、自衛隊の陸・空特別編成音楽隊を先頭に、「日の丸」と提灯を掲げた四五〇〇人の奉迎パレードが行われている。「平和主義」イメージとは裏腹に、天皇と軍隊との軍隊との結びつきは、より露骨に現れていたのだ。

明仁はまた、六月九日には、全国植樹祭への出席に伴って福島県を訪問し、さらに八月五日には、アイヌモシリが「北海道」と命名されてから一五〇年を記念する式典が行われるのに合わせて札幌を訪問し、その前後に離島・利尻島を訪ねる計画となっている。

明仁は昨年八月のビデオメッセージで、「とりわけ遠隔の地や島々への旅も、天皇の象徴的行為として、大切なもの」と述べていた。天皇としての「最後」の訪問地としてこれらの地域が選ばれていることは象徴的である。沖縄と北海道は、近代天皇制国家の出発にあたって、「日本の版図」に編入された地域であり、その一五〇年間の歴史には、日本帝国による国内植民地支配の経験が刻み込まれている。その地域と住民(先住民)を、あらためて日本の「国土」・「国民」として再統合していく「象徴的」な行為として、天皇の訪問はあるのだ。そして侵略戦争と植民地支配の歴史を後景化させる方向での歴史の「清算」は、日本の近代全体を、文明化と経済発展の軌跡としてひたすら明るく描き出そうとする、政府の「明治一五〇年」賛美の動きと連動するものだ。

さらに、明仁天皇がこだわってきたとされるのが「戦没者慰霊」である。今年の八月一五日の全国戦没者追悼式は、明仁にとっては、天皇として最後の式典出席となる。全国戦没者追悼式は、戦争の死者を、戦後日本の発展をもたらした「尊い犠牲者」と賛美することによって、その死を美化し顕彰する儀式にほかならない。その意味において、軍人・軍属(戦闘協力者)の死者を「英霊」として祀る靖国神社と同質のものだ。

8・15反「靖国」行動は、国家による「慰霊・追悼」を撃ち、天皇制の植民地支配、戦争・戦後責任を批判し抜く行動として取り組まれてきた。日本が、戦争法や治安法を整備し、海外における米軍への協力活動など、実際の軍事行動に踏み込んでいる現在、国家にとって「新たな戦争の死者」をどう位置づけ、利用していくかという課題は、ますます現実的なものとなっている。国家による「慰霊・追悼」それ自体が、戦争準備の一環をなしているのだ。そして「代替わり」に伴って新たに登場する新天皇が、そこでどのような役割を果し、また果すことが期待されているのかを問うていかなければならない。

8・15反「靖国」行動をステップに、「明治一五〇年」から「代替わり」諸儀式に具体的に反対していく運動を強化し、向こう側からの「平成の総括」を批判しぬき、天皇「代替わり」を契機として創り出される天皇制社会の時間と空間に抗していく、私たちの自由を取り戻す闘いを準備しよう。8・15反「靖国」行動実行委員会への多くの参加・賛同、協力を!

「明治150年」天皇制と近代植民地を考える8・15反「靖国」行動

[呼びかけ団体]

アジア連帯講座/研究所テオリア/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」の強制反対の意思表示の会/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動者評議会

【追悼文】追悼・新崎盛暉さん

天皇の「生前退位」希望のメッセージに突き動かされるかたちで開始された天皇「代替り」の政治プロセス。今年(二〇一八年)も、私たちは四月二八〜二九日の連続行動の実行委員会をつくりだした。まず三月二七日から二九日にかけての天皇・皇后の「最後の」沖縄訪問に抗議する運動からスタートしていた。その渦中に、新崎盛暉さん死去の悲報は届いた。

『琉球新報』(四月一日)はこう報じている。

「沖縄戦後史や沖縄民衆運動研究の第一人者で、市民運動をけん引してきた沖縄大学学長で同大学名誉教授の新崎盛暉(あらさきもりてる)さんが三一日午後五時五八分、肺炎のため南風原町病院で死去した。八二歳。東京都出身」。

研究の「第一人者」であることはまちがいないが、彼の研究スタイルは、いわゆる研究者のそれとはまったく違っていた。常に反基地や反安保運動の中に身を置き、運動を方向づける実践的意思をもって状況を緻密に分析する。歴史的過去に向き合っている文章でも、その基本的姿勢は崩さない。ようするに運動の中から、運動に向かって、さらにその外部に向かって発信する。その作業の累積が、そのまま「研究」なのである。いいかえれば運動の「同時代史」の記述が、そのまま「運動史研究」なのである。彼は、最後までその姿勢で完走した。こんな人間を、もう一人さがせといっても、ほぼ不可能であろう。

学生時代は「反復帰」論に理論的共感を持って沖縄について考えることからスタートした私が、復帰運動の代表的イデオローグであった彼に強いシンパシーを抱くようになったのは、八〇年代末からの運動の中での交流を媒介に、その点に気付かされたことが決定的であった。この交流の中で、私たちの運動のパンフレットなどに収めるための彼のインタビューや論文の原稿依頼に、また講演依頼に、「学長」である彼は気楽に応じ続けてくれた。

私と対談で小さな本をつくったこともある。『本当に戦争がしたいの!? 新ガイドラインの向こうに見えるもの』(凱風社・一九九九年)がそれである。そのとき聞けた話で、忘れられない、というより忘れてはいけない話(エピソード)が二つある。

「両親は沖縄出身だけれど僕は東京で生まれた」と語る彼は、一九五二年の〈四・二八〉体験について、こう語っている。

「……校長が全校教職員を集めて、今日で日本は独立しましたということで、万歳三唱をしたんです。それが僕と沖縄の出会いだった。僕は沖縄出身だと思っていても紛れもない日本人でもあった。しかし沖縄が日本から切り離されて米国の支配下に置き続けられるというのに、ここで万歳しているやつがいるわけね。校長が音頭とって、九九%くらいがこれに唱和するわけ」。

〈沖縄人という異質性を自覚した日本人〉これが新崎のアイデンティティであり続けた。すべての仕事が、この軸を中心につくりだされているはずだ。

もう一つは、沖縄の女学生「ひめゆり部隊」の悲劇を知ることを通して「非戦闘員の戦争」という視点をふまえることで、自己の「右翼」的心情と論理が「根底から突き崩され」、〈絶対平和主義〉への思想的通路がついた、という話である。

より具体的なエピソードとしては、一九五六年ごろ全学連のデモの中で、何故沖縄は武装蜂起しないのだろうとの話が出たとき、沖縄戦があった沖縄で武装蜂起などあるわけないと、自分は思ったという回想だ。

この二本の思想軸がうみだした大量の「同時代史」=運動史の再読を媒介に、自分たちの運動史を検証してみる作業、これが私たちに残された課題である。私と彼の個人的な対話のスタートは、広島の松江澄さんからの依頼で、一九八七年の〈八・六〉集会の発言者として、彼に声をかけるという任務から始まった。東京からの依頼の電話に、彼は、あの不機嫌そうな声(こういうブッキラボーな対応は、その後も不変であった)で、快諾してくれた。その時、予定されていた天皇ヒロヒトの訪沖がもたらす、沖縄(死者共同体)社会での政治力に危惧の念を語った私に、彼は皮肉っぽく「沖縄では、天皇といえばあの沖縄売り渡しのメッセージしかイメージされないよ」と答えた。アキヒト天皇歓迎一色に見える沖縄。その中に、もう一度この新崎の言葉を置いてみたい。ひたすら無愛想、そのくせ出会った時の突然フレンドリーな笑顔。そういう人であった。

(天野恵一)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

【集会報告】3・ 24 集会報告 天皇の沖縄・与那国訪問を問う

三月二四日午後六時から見出しの集会が、東京・駒込地域文化創造館で約五〇名の結集で開催した。集会は冒頭、司会者が次のように挨拶した。

《天皇アキヒトが沖縄訪問する三月二七日は、『明治』天皇制太政官政府の命を受けた松田道之処分官が、警官一六〇名、熊本鎮台分遣隊約四〇〇名を従えて首里城に押し入り廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じた日である。与那国に行く三月二八日は二年前、陸上自衛隊・沿岸監視部隊の駐屯地が与那国に開設された日である。アキヒトの沖縄・与那国訪問は、日米両政府による辺野古新基地建設をはじめ琉球弧の軍事植民地化のための宣撫工作である。》

お話は、大仲尊さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)が、「自衛隊配備と天皇の与那国訪問」と題して報告した。

《私は一九四九年、与那国生まれで一五歳の時に那覇に行き、その後ヤマトに住んでいる。沖縄戦では与那国は空襲がなく、日本軍の食糧調達のためマラリア地帯であった西表や石垣に住民を強制疎開させた結果、マラリア被害で多くの人が亡くなった。被害の問題はまだ決着がついていない。

報道によれば天皇は、与那国で最初に東牧場の「与那国馬」を見る。その後複合型施設で「ヨナグニサン」(沖縄県天然記念物・世界最大級の蛾)を見る。そこは、自衛隊駐屯地から徒歩で行ける距離にある。駐屯地に行くかはわからないが自衛隊幹部と会うだろう。そして久部良小学校で郷土芸能・棒踊りを見て、漁業協同組合に行く。漁協は、保守の地盤である。その後、日本最西端の碑を訪れるらしい。

戦中有名な与那国出身の二人がいる。一人は伊波南哲、一九四三年作の与那国の詩で与那国島を「南海の防波堤與那國島」「沈まざる二十五万噸の航空母艦」と称して今も祖納にある「讃・与那國島の碑」がある。あと一人は戦死し、「軍神」とあがめられた大枡松市、大枡に続けといわれていた。その弟が元沖縄県警刑事部長であった。自衛隊配備でこのことが過去の話ではないと思える。

自衛隊が入ってきて二年。誘致派は自衛隊と家族三五〇人によって経済が活性化すると言っていたが、現実はそうなっていない。自衛隊員が迷彩服のまま空港や居酒屋に来るようになった。「菊の御紋」があることによって、天皇の権威が生まれ、村八分があるように、自衛隊がきたことによる島の分断が天皇訪問後一層深まるだろうと心配している。》

続いて天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)が、「アキヒト天皇と沖縄」と題して報告した。

《自分達が、天皇と沖縄の問題を意識するようになったのは、天皇ヒロヒトが沖縄・海邦国体(一九八七年)出席のため沖縄を訪問しようとしたことに対して反対運動を準備する過程であった。ヒロヒトは、なぜ沖縄に行かなければならないと思っていたのか。それは「国体護持」のための沖縄戦で「集団自決」を強要し、安保条約の下で売り渡した沖縄を日本国家に統合するのは自分の務めだと思ったのだ。しかし沖縄訪問は果たせなかった。

私は知花昌一さんの救援会(日の丸焼き捨て裁判)にかかわり、その過程で「ひめゆりの塔」火炎瓶闘争の知念功さんの『ひめゆりの怨念火(いにんび)』(インパクト出版会)の出版を手伝ったりした。その中でなぜ裕仁が沖縄に行けなかったのかわかった気がした。

当時、屋良県政はアキヒト皇太子の来沖を受け入れたが、組合レベルでは、「戦犯天皇の上陸を許すな」の闘争があった。火炎瓶闘争だけがとりざたされているが、それは大衆的な抗議行動の象徴的なものであったことを学んだ。ヒロヒトからアキヒトにかわっても変わることなく天皇制の問題として捉え、糾弾する視点があった。アキヒトは今回で一一回目の沖縄訪問であるが、国家・天皇制が強いた犠牲を「慰霊・追悼」することをもってその責任をあいまいにする政治である。》

フロアーから北村小夜さんが、当初から知花さんの支援を行っていたが、「日の丸」の問題だけでなく、「障害児」のことでも議論したことを話された。ピリカ全国実の仲間から「アイヌ民族抹殺の司令官だった天皇の『北海道150年』式典(八月五日)出席に反対しよう」と訴えがあった。

次に、清水早子さん(止めよう!「自衛隊配備」宮古郡民の会)からの連帯メッセージが読み上げられた。│沖縄の元海兵隊員による│性暴力殺害から2年 基地軍隊はいらない4・29集会実行委、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックから連帯アピールを受け、最後に「天皇の沖縄・与那国訪問を許さない!集会宣言」を採択し、4・28「明治150:日本による沖縄差別を問う 近代天皇制国家形成から日米安保体制のもとで」、29日デモへの結集を訴え集会を終えた。

(野村洋子)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

 

【集会報告】3.24-4.28-4.29連続行動

私たち「天皇『代替わり』と安保・沖縄を考える4・28-29行動」は、実行委の名称にあるとおり、今年も4・28(「沖縄デー」)と4・29(「昭和の日」)を、連続して行動する日として位置づけ、28日の講演集会と29日のデモに取り組んだ。

今年は、三月二七日から二九日にかけておこなわれた明仁・美智子の沖縄・与那国訪問に反対する集会を準備することから、実行委の活動をスタートさせた。天皇が沖縄を訪れたのは、いわゆる「琉球処分」によって近代天皇制国家が沖縄を日本の版図に編入した、まさにその同じ日である。同時に二年前の三月二八日は、与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置され、この地が、文字通り「離島防衛」の最前線に置かれた日なのである。今年、天皇が沖縄に入ったまさにその日に、陸上自衛隊の「陸上総隊」が発足し、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)も置かれた。そういう時期に、そういう場所を天皇が訪れる。「平和天皇」イメージとは裏腹に、天皇制と軍隊の露骨な結びつきが、そこにあったのだ。

私たちは、天皇の沖縄・与那国訪問を前にした三月二四日に、駒込地域文化創造館において、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの大仲尊さんと、実行委の天野恵一を発題者として「天皇の沖縄・与那国訪問を問う」討論集会を持った。

そして四月二八日には、那覇市出身の近代法制史研究者である湖南通さんの講演集会を持った。

今年の2・11反「紀元節」行動においても課題として打ち出した「明治一五〇年」を批判的に問い直すという課題を、近代天皇制国家による沖縄支配の現実をとらえ返す中で考えたいという問題意識があった。文京区民センターで行われた集会には約一〇〇名が参加。講演の後には、一坪反戦関東ブロック、基地・軍隊はいらない4・29集会、安倍靖国参拝違憲訴訟、警視庁機動隊の沖縄派遣に対する住民訴訟、優生保護法や元号など、さまざまな課題と取り組む団体からアピールを受けた。

翌二九日には、神田駅近くの常盤公園に集合し、反「昭和の日」銀座デモをおこなった。デモ出発前には、実行委から二八日の集会報告、元号はいらない署名運動、辺野古への基地建設を許さない実行委員会からのアピールが行われ、またデモの解散地点では、多摩地域メーデー、明治公園オリンピック追い出し国賠訴訟、労働運動活動者評議会のアピールを受けた。

一〇〇人ほどのデモは、随所で街宣右翼の宣伝カーの妨害に遭い、数寄屋橋周辺には在特会系の「カウンター」などもあり、また解散後には右翼の待ち伏せなどもあったが、直接物理的に接触するような場面はほとんどなかった。それに比べ、右翼を理由にした警察・機動隊の介入は相変わらずひどく、実行委としては、警察に対する「苦情申し立て」など、原則的な抗議を重ねるべく準備しているところだ。

すでに、8・15に向けた活動も準備しており、また、首都圏の反天皇制運動の枠で取り組んでいる「元号はいらない署名運動」でも、七月二一日に集会を準備している。8・15以後も、秋から来年にかけて、本格化する天皇「代替わり」攻撃に抗するさまざまな取り組みを、連続的に打っていくことになるはずだ。引き続き、多くの方々の注目と参加をお願いします。

(北野誉)

*共同行動報告集(2018年6月14日発行)より

【集会報告】天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4・28─29連続行動

今年も4・28─29連続行動として、天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える連続行動実行委を起ち上げ(もちろん反天連も参加)、4・28集会、4・29デモを無事終了させることができた。この実行委では、三月の天皇の沖縄・与那国訪問を問う集会を開催し、大きな連続行動ともなった。協力・参加されたみなさま、お疲れさまでした!

今年の反天皇制運動の実行委員会は、明治一五〇年キャンペーンに抗していくことを一つの大きな課題として立てている。2・11行動に引きつづき、4・28集会もこの課題視点で準備を進めた。

文京区民センターで行われた講演集会の講師は湖南通さん(日本近代法史)。湖南さんは沖縄・辺野古の座り込み闘争から戻って来られたばかりで、お話はそのホットな報告から始まった。湖南さんを始め多くの座り込む人たちがごぼう抜きにされ、背中は米軍基地のフェンス、目の前に機動隊の壁が立ちはだかる空間に押し込まれ、そこはいかにも象徴的な空間で、米軍と日本警察によって作られた牢獄に入れられたようだったと、語られた。「明治一五〇年」と沖縄の歴史、現在のヤマトと沖縄の関係を象徴するシーンでもある。

講演では、琉球国が天皇制国家に併合されていく過程とその差別的な政策、その目的が沖縄を「国防の人柱」として利用することであったことなど、文献を紹介しながら詳細に語られた。そして、日本の敗戦、天皇メッセージ、沖縄の米軍統治時代、沖縄返還から現在へと続く。現在の沖縄と日本の関係、沖縄の基地問題を理解するために必要な歴史を、ポイントを絞って話していただいたのだと思う。とてもわかりやすく、批判とユーモアに富んだお話だった。
講演後、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、基地・軍隊はいらない!4・29集会、安倍靖国参拝違憲訴訟、機動隊沖縄派遣住民訴訟、優生保護法の問題、元号いらない署名等、短いが内容の濃いスピーチをもらって終了。集会参加者一〇六名。

翌日二九日の反「昭和の日」のデモは、一貫して「天皇いらない」を主張するデモとして準備。大きな「天皇はいらない」の横断幕(実際は縦断幕)もつくった。デモ出発前には常磐公園で、実行委から前日の集会の報告を簡単にし、元号いらない署名、辺野古への基地建設を許さない実行委員会から、デモ終了後も、多摩地域メーデー、労働運動活動者評議会、明治公園オリンピック追い出し国賠訴訟からアピールをもらった。

デモ中は、警察が右翼街宣車がデモに接触しないように周辺で止めていたようで、もっぱら歩道で騒ぐ右翼とそれを取り囲む警察があちこちで団子になっていた。右翼の弊害が少ない時は決まって警察の規制のひどさが目立つ。「私たちは軍隊ではない、そのような口調の命令をしないでくれ」と、何度声を荒げたことか。背中を押す、参加者の肩や背中を平気で触って「前へ、前へ!」「詰めて!詰めて!」とくり返す警察に、参加者も腕を振り払ったり、抗議をくり返していた。それでもデモは気持ちがいい。デモ参加者一〇〇名くらい。実行委員会の行動はまだ続く。数は力なり。継続は力なり。これからもご参加お願いします!

(大)

【集会宣言】4.28-29連続行動集会宣言

3月27日から29日にかけて、明仁・美智子は、「最後の」沖縄訪問をおこなった。3日間でのべ約2万人が歓迎のために集まったとされ、那覇の国際通りでは、自衛隊の陸・空特別編成音楽隊を先頭に、「日の丸」と提灯を掲げた奉迎パレードが行われ、4500人が参加した。今回の沖縄訪問は、天皇として6回目、皇太子時代を含めると11回目となり、今回初めて「国境の島」与那国も訪問した。

明仁の沖縄訪問について、各メディアはその「慰霊」「平和」の思いや「癒し」なるものを最大限持ち上げて報じた。〈1975年、皇太子時代に初めて沖縄を訪問したとき、ひめゆりの塔の前で火焔瓶を投げつけられたが、明仁はそれ以後も一貫して沖縄に心を寄せ続け、沖縄訪問のたびに摩文仁の戦没者墓苑で献花し遺族らと向き合い、その感情に寄り添って平和を祈り続けてきた……〉といった物語である。

今回天皇が沖縄訪問をした3月27日は、いわゆる「琉球処分」=処分官・松田道之が、武装した兵士や警官などを従えて首里城に押しかけ、廃藩置県を布達した日であった。そして、1945年に米軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦が始まったのは、前日の3月26日にあたる。また今年、天皇が沖縄に着いたまさにその日に、陸上自衛隊は全国の5方面隊を一元的に指揮する司令部として、朝霞駐屯地に「陸上総隊」を発足させ、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)をおき、与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置されたのも2年前の3月28日なのである。こうした一連の象徴的な日付のなかで、今回の天皇訪沖があったこと。その政治的意味合いを、私たちは批判し抜いていかなければならない。

天皇を迎えた与那国の外間町長は、「私たちは本土とは隔絶された状況にあり、文化の違いもある。そこから生まれる本土との温度差が、両陛下の与那国訪問でほとんど消えうせたように感じる」と述べた。天皇の役割とは、まず第一に、このような日本と沖縄の歴史が生み出し続けている矛盾や「違和」を消去させ、日本の沖縄支配を正当化し、住民を政治的・文化的に「再統合」していく役割である。明仁は、8月には「北海道命名150年」記念式典に参加するために北海道を訪問するが、ここでも北の離島である利尻島を訪れるという。天皇が重視しているとされる「離島の旅」とは、天皇がそこに足跡を印すことによって、この国の「版図」を再確認するためのものだ。

そして天皇の役割の第二は、遺族に「寄り添い」、「慰撫」するとされるふるまいを通して、天皇制国家の戦争・戦後責任を、観念的に清算し消去していく役割を果たすことだ。

そもそも、1945年2月に「敗戦は最早必至」として終戦工作を勧めた首相・近衛の上奏に対し、「国体護持」のために「もう一度、戦果を挙げてからでないと難しい」といって拒否し、その後の沖縄戦を招いたのが、明仁の父である裕仁だった。天皇制は明らかに沖縄戦の責任を負っている。その裕仁を「常に平和を祈っていた」存在として弁護し続けてきたのが明仁である。これらは同時に、「生前退位」を通じて、象徴天皇制の意味を積極的に再確定していくことをもくろむ、明仁の「公的行為」の総仕上げとしての意味も持つ。

そしてなによりも、与那国への陸自配備、宮古島や石垣島、沖縄本島への配備計画など、軍事的な対中国シフトを強化している現政権の志向と、天皇の沖縄訪問とが、今回はとりわけ露骨にリンクしていたと言わなければならない。

「防衛白書」などに盛り込まれた「島嶼防衛」は、離島奪還を前提とするもので、いわゆる「領土・領海」を防衛することが目的であって、そこに暮らす住民の生活や安全などもとより考えられていない。その発想は、沖縄の住民を天皇制国家の延命のための「犠牲」とした沖縄戦とまったく同質のものである。今回与那国では、町内のあちこちに、自衛隊協力会によって、「奉迎」「ご来島ありがとうございます」と書かれた横断幕が掲げられた。また天皇が乗った車は、自衛隊与那国駐屯地の隊員によって、と列で迎えられた。天皇が直接自衛隊員を鼓舞する場面が演出されたわけではないにせよ、それは天皇と軍隊との関係を、疑いなく強化した。

天皇の沖縄訪問の期間には中止されていた辺野古の基地建設工事は再開され、海を埋め立てる護岸工事が始まって1年たったいま、列をなす工事車両を阻止しようと座り込む人びとの闘いが続いている。安保を「国体」とする日本国家によって、沖縄に押しつけられていく米軍・自衛隊基地に反対する沖縄の人びとの闘いに、「本土」の私たちはどのように運動的に応えるべきか。そのことを自ら問い、基地と安保をなくすために可能なさまざまな行動に取り組んでいこう。

私たちは、3月24日に「天皇の沖縄・与那国訪問を問う」集会をもち、本日ここに「明治150年:日本(ヤマト)による沖縄差別を問う」集会をもった。そして明日4月29日には、沖縄戦をもたらし、戦後は「天皇メッセージ」を発して安保体制の成立にむけて沖縄を差し出した裕仁の責任をも問うべく、裕仁とその時代を賛美する「昭和の日」に反対するデモに取り組む。

一連の行動を通して私たちは、現在に続く日本と沖縄の関係を再度とらえ直し、それを含む近代日本150年のありよう、とりわけ、サンフランシスコ条約と日米安保体制によって規定された戦後象徴天皇制国家・日本の「平和と民主主義」の内実を批判しつつ、来年にかけての天皇「代替わり」に反対していく運動を持続していく。

2018年4月28日

天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29行動

【集会報告】3・24 天皇の沖縄・与那国訪問を問う反天実行委の集会

三月二七日、アキヒト・ミチコは沖縄・与那国を訪問した。それを前にした二四日、天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4・28–29 連続行動は、駒込地域文化創造館において、「天皇の沖縄・与那国訪問を問う3・24 集会」をもった。

講師は沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの大仲尊さんと、反天連の天野恵一。

まず、与那国出身である大仲さんは、島の暮らしや、語り継がれる沖縄戦の記憶から話を始めた。そして、伝えられる与那国での天皇のスケジュールについて検討し、牧場やヨナグニサンという蛾を見るというが、どこかで自衛隊と非公然でも接触する場があるはずだ、と注意を喚起した。そして、与那国の「軍神」大舛松市の顕彰や自衛隊誘致など、国境の島として軍事戦略的な意味を与えられ続けて来たこの地を、天皇の訪問を通じて改めて包摂することが今回の政治目的だと述べた。

天野は、八七年の、天皇の沖縄訪問反対運動を通して、自分たちの反天皇制運動が「沖縄」と直面した経緯をふりかえり、その過程で「ひめゆりの塔」で皇太子アキヒトに火炎瓶を投げつけた知念功と出会ったこと、その訴訟記録を読み直して感じたこと、などについて話した。

アピールとして、基地・軍隊はいらない4・29 集会、一坪反戦地主会関東ブロックから「辺野古ゲート前連続6日間500人集中行動」へのよびかけ、宮古島ピースアクション実行委員会の清水早子さんからのメッセージも代読された。最後に、実行委によって集会宣言が提起され、4・28–29 連続行動への結集が呼びかけられた。

天皇沖縄訪問を報じるメディアのトーンは、「日々沖縄に思いを寄せ続け『戦争の記憶風化』を懸念する両陛下」というものだ。そして、「本土」と沖縄の間の「歴史的なしこり」を、天皇夫婦の活動が癒していったという話だ。今後の行動を通して、その欺瞞性と政治的意味を、はっきりと批判していかなくてはならない。

(北野誉)

【集会案内】天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29連続行動

4月28日(土)集会◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
明治150年:日本による沖縄差別を問う
——近代天皇制国家形成から日米安保体制のもとで
[お 話]湖南 通 さん(那覇市出身,日本近代法史研究)
[日 時]428日(土)18:00開場/18:15開始
[会 場]文京区民センター・3A(地下鉄春日駅・後楽園駅からすぐ)
[資料代] 500円

4月29日(日・休)デモ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
4・29反「昭和の日」デモ
[日 時]429日(日)14:00集合/15:00デモ出発
[集合場所]常盤公園(中央区日本橋本石町4丁目4−3)
https://park.publicmap.jp/print/11518
*新日本橋駅(JR総武本線・銀座線・半蔵門線)より徒歩4分
*神田駅(JR山手線・銀座線)より徒歩4分
*東京駅より徒歩7分
*三越前駅(半蔵門線)より徒歩7分
★デモの集合場所・集合時間が変更になりました。ご注意下さい!
また、常盤公園は常盤橋公園とは違います。近くですが、お間違えのないように!

■武力によって大日本帝国(天皇制国家)の版図へ強制的に組み込まれ,皇民化政策のもとで植民地的支配を自ら被りながらも,侵略・植民地支配の先兵として動員され,さらに,本土防衛の「捨て石」とされ,住民の4人に1人が戦争で殺された沖縄。
■敗戦後も米国軍政下に置かれ,日本(ヤマト)の「主権回復」後も裕仁天皇のメッセージによって占領状態が継続され,「復帰」後にも米軍基地(日米安保体制)の過重な負担を押しつけ続けられている沖縄。
■日本国家は,「明治」から「昭和」にかけての戦争・植民地支配政策の推進とその破綻(敗戦)の負担も,戦後の平和憲法のもとで併存したアメリカ核軍事力に依存した日米安保体制の負担も,沖縄に押しつけ続けてきた。
■今年政府は,「明治の精神に学び,日本の強みを再認識する」という「明治150年」キャンペーンを展開している。「明治150年」とは近代天皇制の150年である。日本(ヤマト)によって沖縄との間に作り出されてきた関係は,政府の賛美とは逆に,その醜悪な構造を露わにする。この沖縄と日本(ヤマト)の関係をみすえる集会を持ちます(4月28日:沖縄デー)。また,天皇制の戦争責任・植民地支配責任を問い,歴史の改竄を許さない,反「昭和の日」デモも行います(29日:裕仁の誕生日)。ぜひ多くの方のご参加を!

主催 ●天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29 連続行動実行委員会
【呼びかけ団体】アジア連帯講座/研究所テオリア/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/ピープルズプラン研究所/「日の丸・君が代」の強制反対の意思表示の会/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動者評議会

【集会宣言】天皇の沖縄・与那国訪問を許さない!

天皇と皇后は、来る3月27日から29日まで、沖縄・与那国島を訪問する。明仁天皇は皇太子時代(5回)も含め今回で11回目、来年4月末で皇位を徳仁へ譲ることになっているので、天皇として最後の沖縄訪問となる。

明仁天皇は、「象徴としての務め」として、「先の大戦」の犠牲者に対する「慰霊」と「追悼」の旅を繰り返し、その都度、「お言葉」を述べてきた。沖縄への度重なる訪問は、唯一の地上戦を経験し、住民の4人に1人が戦死したといわれる沖縄ついてはひときわその思いが強いからである、といわれている。

かつて明仁天皇は、「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」と述べている(2005年誕生日の記者会見)

「先の大戦」中、天皇は、大日本帝国憲法により「神聖不可侵」とされ、軍隊の最高指揮権(統帥権)を保持していた。「国民」の精神(生き方や死に方)を大きく規定していたのは「教育勅語」であり、軍隊では「軍人勅諭」という「天皇の言葉」であった。そして沖縄が地上戦を戦わざるを得なかったのは、「国体護持」を至上命題とした天皇制国家による「捨て石」とされたからである。

「先の大戦」の犠牲者は、地震や台風といった災害の被災者ではない。まぎれもなく、天皇を頂点に戴く国家の作為による犠牲者である。しかし明仁天皇の慰霊・追悼の旅にかかわる「お言葉」には、もちろん、父・裕仁の、そして自ら継承した天皇(制)の責任には一切ふれられることはない。謝罪の言葉が含まれることもない。「過去の歴史」を「正しく理解しようと努める」という姿勢はそこにはまったくみられない。それどころかそれとは逆に、事実を歪め、天皇(制)の責任を糊塗・隠蔽し、そうすることによって、天皇制による国家・国民(再)統合を意図しているものにすぎない。

さらに、今回の沖縄・与那国への天皇の訪問は、これまでにない特異な様相も備えている。

まず、天皇が沖縄を訪ねる3月27日は、139年前(1879年)に内務官僚・松田道之が、軍隊300名と警官160名余を率いて首里城に入り、琉球国王に城の明け渡しを求め廃藩置県を布告した日である。  明仁は、「私にとっては沖縄の歴史をひも解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです」(2003年誕生日の記者会見)とのたまっている。そう言いつつ、この日に沖縄を訪問するとは何をかいわんやである。

また、翌28日に明仁は、初めて与那国島を訪問するが、この日は、ちょうど2年前(2016年)に、自衛隊与那国駐屯地が開設され、与那国沿岸監視隊(150名程度)が配備された日にあたる。住民虐殺(強制死)を含む皇軍(日本軍)の振る舞いの記憶が残る沖縄(南西諸島を含む)では、当然ながら自衛隊配備に反対する声が多い。与那国でも意見が分かれ住民投票が行われている。中国脅威論を煽り、南西諸島(宮古島、石垣島、奄美黄島)への自衛隊配備・増強を進める安倍政権にとって、地域住民の「融和」と「辺地」へ配備される自衛官の「慰撫」は必要不可欠となる。そうしたなかでの、今回の天皇の「開庁日」にあたる日の訪問は、表だって自衛隊施設を訪れるということではないにしろ、その意図するところは明白である。

日本国憲法を踏みにじり、自らの意志により、生前退位による皇位継承の路線を引いた明仁が、退位を前にして、後継に期待する新たな「象徴としての務め」がそこに見えてこないだろうか。  天皇(制国家)と沖縄との歴史を顧みれば、今回の訪問はおよそ許されるものではない。

明仁天皇の沖縄・与那国訪問を許してはならない!

2018年3月24日

天皇の沖縄・与那国訪問を問う3・24 集会参加者一同

 

 

【集会案内】天皇の沖縄・与那国訪問を問う3.24集会

天皇の沖縄・与那国訪問を問う3.24集会

報告「自衛隊配備と天皇の与那国訪問」
大仲 尊 さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)
報告 「アキヒト天皇と沖縄」
天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)

[日 時] 3月24日(土)18:00 開始
[会 場] 駒込地域文化創造館 (JR&地下鉄南北線・駒込駅からすぐ)
[資料代]500円

■来る3月27日から29日にかけて、アキヒト天皇が沖縄・与那国を訪問する。
■アキヒトが沖縄入りする3月27日は、139年前(1879年)に内務官僚・松田道之が、軍隊300名と警官160名余を率いて首里城に入り、琉球国王に城の明け渡しを求め廃藩置県を布告した日である。
■また翌28 日にアキヒトは、初めて与那国島を訪問するが、この日は、ちょうど2年前(2016年)に、自衛隊与那国駐屯地が開設され、与那国沿岸監視隊(150名程度)が配備された日にあたる。
■与那国だけでなく、宮古島、石垣島、奄美大島にも自衛隊配備が強行されつつある中での、自衛隊開設記念日の天皇の訪問は何を意図するものなのか。
■「象徴としてのありかた」を模索してきたというアキヒト天皇の今回の沖縄・与那国訪問の意味を問う。

主催 ●天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29 連続行動実行委員会
【呼びかけ団体】(2018年3月6日現在)
アジア連帯講座/研究所テオリア/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」の強制反対の意思表示の会/靖国・天皇制問題情報センター/労働運動活動者評議会